50年代を背景にしたこの映画は、インディアナポリスに暮らすソニーとガナーというふたりの若者を主人公にした青春映画のように見える。彼らの関心はまずなによりも女の子にある。スポーツマンのガナーは美術館で出会った画学生のマーティに心を奪われ、猛烈なアタックによって交際にこぎつける。内向的な写真家ソニーは、結婚ばかりせがむガールフレンドに嫌気がさしている。そこで、マーティに紹介されたゲイリーにアタックするが、屈辱を味わい、自殺をはかる。その一方では、彼らの母親たちがそれぞれに息子を束縛し、あるいは戸惑わせる。
しかし、ペリントンが関心を持っているのは、恋愛やセックスや母子の関係だけではない。この映画は、『隣人は静かに笑う』に描かれたようなサバービアの生活の出発点を扱っている。50年代、人々は「パパは何でも知っている」のようなホームドラマや様々な広告から浮かび上がる幸福なアメリカン・ファミリーのイメージに魅了され、続々と都市からサバービアへ転居していった。
ところが、そのイメージが生まれた背景を探ってみると、この幸福が怪しいものになってくる。当時は戦後の住宅不足を解消するための政策がとられ、郊外の一戸建てが安く手に入れられるようになった。テレビという新しい娯楽が急速に普及し、大量消費時代が始まった。サバービアに転居すれば、都市が抱える人種対立、犯罪、過密などの問題、さらに戦後を覆う冷戦の脅威を忘れることができた。
これらは考えてみるとすべて外的な要因であることがわかる。つまり幸福のイメージは外側から作られたもので、実際には中身は空っぽだった。しかもこのイメージには、当時の保守的な教会のモラルが反映されてもいた。
『インディアナポリスの夏』は、ソニーとガナーが朝鮮戦争から故郷に戻ってくるところから始まる。それは、彼らがサバービアの外の世界をすでに知っていることを意味する。ペリントンは、そんな主人公たちが空虚なサバービアのなかで感じる疎外感、喪失感をMTV出身の監督ならでは映像センスで描き出していく。
信仰によって息子を縛ろうとする母親やテレビのホームドラマから抜け出たような家庭、異様な空気が漂う教会、不安定な構図と暗いトーンのなかに蠢くソニーの衝動や欲望、美術館に展示されたジャクソン・ポロックの絵画などのイメージが生み出すコントラストが、サバービアと個人の相克を際立たせる。
この映画は突き詰めれば、外の世界を知ってしまった主人公たちが、無意識のうちに出口を求め、そこを出て行くまでを描いているといえる。ペリントンは、孤立する若者を通して、50年代のサバービアの閉塞感を鮮やかに浮き彫りにしている。 |