フランスの古典学者フランソワ・アルトーグの『「歴史」の体制』を読んでいるときに、アサイヤスの新作『夏時間の庭』を観た。この本には、オルセー美術館の全面協力のもとに製作されたという映画と関わりのありそうな記述が出てくる。
たとえば、80年代の記憶と遺産の大ブームがこのように説明されている。「遺産は、保護され、リスト化され、価値を定められ、再検討されるべきものである。数々の記念館が建てられ、大小様々な美術館が改増築された」。さらに、90年代に加速する遺産化のなかで、遺産建造物が法令によってこう定義される。「我々の遺産、それは我々の歴史の記憶であり、我々の国家的同一性の象徴である」
歴史はもはや個人や家族やコミュニティの日常のなかで生きつづけるのではなく、第三者によって整理・統合され、より大きな枠組みのなかに回収されていく。生きた歴史は、そんなふうにして管理された歴史の記憶になる。
これまでアサイヤスは、グローバリゼーションのなかの個人の在り様を掘り下げてきた。『デーモンラヴァー』のヒロインは、偽名も偽造の身分証もスパイの仮面も剥ぎ取られ、ネットに拡散していく。『レディ・アサシン』のヒロインは、偽名と偽造の身分証を獲得し、完全に匿名的な存在となる。いずれにしても彼女たちは、過去を失い、現在だけを生きることになる。
これに対して新作では、グローバリゼーション以前と以後の境界で選択を迫られる家族を通して、記憶、遺産、歴史、同一性、家族、個人の関係が掘り下げられていく。三人の子供たちは、広大な家と庭、美術品のコレクションをどう処理するのか。それは歴史の運命を決めることでもある。
長男は生きた歴史を引き継ごうとする。だが、すでにグローバリゼーションのなかで生きている次男と長女は、もはや歴史を必要としていない。だからコレクションは美術館に寄贈されるが、遺産化は家族の歴史を拭い去るだけで、何も生み出しはしないだろう。アサイヤスが見ているのは歴史の終わりなのだ。 |