デルフィーヌ・グレーズの長編デビュー作『めざめ』は、ロバート・アルトマンの『ショート・カッツ』やポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』と同じように、関連のない多くの人物が登場し、複数のドラマが絡み合っていくポリフォニック(多声的)な構造を持った作品である。こうした作品でひとつのポイントになるのは、プロローグとエピローグだ。それらは、映画に描かれる世界の枠組みを作り、登場人物たちを結びつけ、複数のドラマをひとつにまとめあげる役割を果たしている。
たとえば、『ショート・カッツ』のプロローグでは、害虫駆除の薬剤を散布するヘリの編隊がロスの上空を旋回することによって、登場人物たちが次々と映しだされ、舞台が巧みに限定される。それに続くドラマでは、日常における自己と他者の視線が強調され、様々な夫婦がそれぞれに表層にとらわれていく。そしてエピローグでは、そんな登場人物たちに覚醒をうながすかのように大地震が起こる。
『マグノリア』のプロローグでは、とてもこの世に起こりそうもないようないくつかのエピソードが紹介され、ドラマもまたとても起こりそうもないことが起こるクライマックスへと向かっていく。渇いた気候のロス郊外に雨の予報が流れ、雲行きが怪しくなるなか、辛い過去から目をそむけてきた登場人物たちはそれぞれに人生の岐路に立たされる。そして、空からとんでもないものが降り注ぐとき、彼らは過去と向き合うことになるのだ。
『めざめ』のプロローグとエピローグ、あるいはそれらとドラマの関係は、この2作品と比べてみてもかなりユニークだといえる。プロローグは、スペイン南部で行われる闘牛である。亡父の後を継ぎ、初めてアリーナに立った闘牛士ヴィクトールは、止めを刺すために牡牛ロメロと向き合った次の瞬間、角で激しく突き上げられ、宙に舞う。病院に運ばれた彼は、意識不明のままベッドに横たわる。ロメロは解体され、その肉や骨、眼球、角は、食肉や研究材料としてフランスやベルギーに送られ、最終的に登場人物たちのもとに届けられる。そして、彼らの人生に大きな転機が訪れる。
この映画で、関連のない登場人物たちを結びつけるのは解体されたロメロといえるが、プロローグと複数のドラマの繋がりは決してそれだけではない。複数のドラマにも、人間と動物、生と死の対置がある。
フランスに暮らす少女ウィニーの両親は、感受性の鋭い娘と向き合うことを無意識のうちに避け、ペットの犬に愛情を注いでいる。保母のジャンヌは、人間よりも大きな犬の絵を画くウィニーを見ながら、自分の少女時代の記憶が欠落していることが気になりだす。スペインの実家に帰った彼女は、母親アリスにその疑問をぶつけるが、なぜか母親は言葉を濁す。その母娘は偶然、トラックで運ばれるロメロの死骸を目にする。妊娠中の妻ベティと暮らすジャックは、ベルギーの獣医大学で動物の目を研究している。キャンピングカーに暮らす老母ロージーと息子リュックは、剥製作りで生計を立てている。
しかも、彼らのドラマには、人間と動物の境界を曖昧にするようなささやかなエピソードが散りばめられている。ジャンヌとアリスがトラックで運ばれるロメロの死骸を目にしたとき、母親はトラックを「死体運搬車」と表現し、娘から言葉の誤りを指摘される。ウィニーの両親は、犬にはフレッドという人間の名前をつけているのに、娘には、劇中でアリスが「人間の名前じゃない」と語るように、「くまのプーさん」(Winnie the Pooh)を連想させる奇妙な名前をつけている。リュックは、剥製にする子犬たちに名前をつけているが、母親はモノとして数字で数えるように注意する。さらに細かいことをいえば、カルロッタは、子供向けのテレビ番組で牛の着ぐるみをかぶり、ベティは隣人の犬を驚かすために、犬の鳴き真似をする。
この映画の世界は、リアリズムとは異なる奔放なイマジネーションによって作り上げられているが、プロローグとエピローグの繋がりからは、そのイマジネーションの源が見えてくる。プロローグで、晴れ舞台に立つために身支度をするヴィクトールは、時間を尋ね、彼の仲間が「5時」と答える。一方、エピローグでは、ベティが時間を尋ね、ジャックが「5時」と答える。このふたつの「5時」の間には、複数のドラマのなかで様々な出来事が起こり、長い時間が経過しているが、監督のグレーズはエピローグで、興味深い時間の流れを生みだしている。 |