前半部の物語は、設定は様々だが、ある種の定型に倣っている。たとえば、ジェームズ・マーシュの『キング 罪の王』では、テキサス南部に暮らす牧師の一家の前に、ガエル・ガルシア・ベルナル扮する若者エルビスが現われ、娘のマレリーを誘惑し、一家の運命を大きく変えていく。デヴィッド・ジェイコブソンの『ダウン・イン・ザ・バレー』では、ロサンゼルスのサンフェルナンド・バレーに暮らす一家の前に、エドワード・ノートン扮する若者ハーレンが現われ、17歳の娘トーブを誘惑し、彼女の父親ウェイドとハーレンが激しくせめぎ合うことになる。
本作の前半部では、爆破テロで家族を失った娘マキシと彼女を誘惑するカール、そしてマキシの父親アレックスの間に、同じような緊張関係が生まれる。しかし、後半でそのような定型が完全に崩れてしまう。極右のグループが、裏で非合法な活動をしつつ表では合法的に勢力を拡大していこうとするなら、カールの計画は、たとえばティム・ロビンスの『ボブ★ロバーツ』のように、銃撃される狂言になるはずだが、カールは一線を越えて殉教者になろうとする。最初から、武装蜂起やクーデターが目的であるなら、前半部で定型に倣った物語を語る意味すら曖昧になってしまう。
ヤニス・ニーヴーナーが演じるカールについては、同じクリスティアン・シュヴォホー監督の『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』で、ニーヴーナーが演じる外交官ポール・フォン・ハートマンと比較してみるのもちょっと興味深い。ハートマンはかつてはヒトラーを崇拝していたが、ある出来事がきっかけで反ヒトラーのグループの一員となり、ついにはヒトラー暗殺を企てる。一方、本作では狂信者の道を突き進み、殉教者となる。
ちなみに、シュヴォホー監督と脚本を手がけたトーマス・ヴェンドリヒは、2016年に、ドイツのネオナチ・テロリスト・グループ”Nationalsozialistischer Untergrund / National Socialist Underground(略してNSU)”が引き起こした殺人事件を題材にしたテレビのミニシリーズ「Mitten in Deutschland: NSU」のなかの1話を共同で手がけていて、そこからさらにリサーチを行って、本作を作り上げたが、そのNSUの印象を引きずったために、このように定型が崩れるような物語になってしまったのかもしれない。 |