[ストーリー] ギリシャ郊外にある高い塀に囲まれた裕福な家庭。だが、一見普通に見えるこの家には秘密があった。外の世界の汚らわしい影響から守るために、両親が子供たちを家の中から出さずに育ててきたのだ。邸宅の四方に高い生垣をめぐらせ、子供たちに「外の世界は恐ろしいところ」と信じこませるために作られた“厳格で奇妙なルール”の数々。
彼らの生活はまったく普通のものではなかったが、子供たちは純粋培養の中すくすくと成長し、幸せで平穏な日々は続いていくかのように思われた。しかし、ある日父親が年頃の長男のために、外の世界からクリスティーナを連れてくる。彼女の登場が、家族の中に思わぬさざ波を起こしていくのだった――。[プレスより引用]
フランソワ・オゾンの『ホームドラマ』(98)やウルリヒ・ザイドルの『ドッグ・デイズ』(01)、そしてここで取り上げるギリシャの新鋭ヨルゴス・ランティモスの長編第2作『籠の中の乙女』。ヨーロッパの映像作家が描く郊外の家族は、アメリカのそれとは一線を画しているように思えます。
戦後の大量消費時代から始まったアメリカの郊外化では、人々が広告やホームドラマを通して生み出された“幸福なアメリカン・ファミリー”のイメージに縛られているところがあります。映画に登場する家族も、そんなイメージの影響を受けています。
ヨーロッパの映画では、そんなイメージが希薄で、その代わりに別の要素が際立っています。ひとつは、伝統的な家父長制や男性優位主義です。そしてもうひとつは、生々しい暴力性です。
この『籠の中の乙女』では、家父長制が独自の視点で描かれています。映画は、学校に通っていない子供たちが、カセットテープを使って言葉を学ぶところから始まります。子供たちは、海=革張りのアームチェア、高速道路=とても強い風、遠足=固い建築資材というように、様々な単語をまったく違った意味で、教え込まれます。映画の中盤では、フランク・シナトラの曲の歌詞が、父親によってまったく違う意味に翻訳されます。
父親が常に家に居て、監視しているのであれば、そんな洗脳も可能かもしれません。しかし父親は会社に通勤しています。あるいは、一家だけに通用する辞書のようなものがあれば、なんとかなるかもしれませんが――。ある日、息子が母親に、クリスティーナから聞いた「ゾンビ」という言葉の意味を尋ねます。父親は仕事で不在のため、母親はその意味を黄色い小さな花と説明しますが、これはおそらくでまかせでしょう。そういうズレが積み重なれば、世界はほころびていくことになります。 |