ただし、『ファーナス/訣別の朝』の人物関係や物語の構成には問題もある。重要なのは、兄弟の物語の軸がブレることなく、最終的にすべてがその絆に集約されることだが、この映画は途中で軸がブレるような印象を与える。
映画の表現の基本になるのは、なにを描くかではなく、なにを描かないかだ。描かないことが想像の余地を広げ、ドラマに深みを生み出す。しかしこの映画の場合には、なにを描かないかがあまりにも多すぎる。それらは、描かなかったのではなく、時間などの制約で描き込めなかったのだろう。
リナはどういう想いでラッセルと暮らし、なぜ彼と別れることを決意したのか。また、なぜ保安官のウェズリーと付き合うことにしたのか。そのウェズリーはコミュニティのなかでどのような立場にあるのか。その保安官が失踪したロドニーの捜索の先頭に立つのであれば、そうした背景も重要になる。一方、ロドニーのマネージャー的な立場にあるジョン・ペティと危険な試合を仕切るニュージャージーのヒルビリーのボス、ハーラン・デグロートの因縁や彼らの背景というのも、同じく想像に委ねられている。
主人公の兄弟以外に、これだけの人物について想像の余地が残されると、さすがに兄弟の物語としての軸がブレざるをえない。
筆者が興味をそそられたもうひとつの点は、映画に盛り込まれた“狩猟”のエピソードだが、これも『インディアン・ランナー』と無関係ではない。
ショーン・ペンの監督作の鍵になるのは、狩猟のイメージだ。『インディアン・ランナー』の冒頭では、鹿を狩るインディアンと犯罪者を追跡する警官が対置される。『プレッジ』では、殺人犯を追い続ける元刑事が、餌がなければ見えない魚を捕らえることはできないという考えにとらわれ、愛する者を危険に晒し、運命の悪戯に翻弄されていく。正義感や信念が歪み、感情や衝動が勝るとき、追う者は、社会的な制度を逸脱して、自然の摂理だけに従う狩人に変わる。
『ファーナス/訣別の朝』では、ラッセルが叔父と行う鹿狩りが、ロドニーが挑む危険な賭け試合と対置されると同時に、クライマックスの伏線にもなる。ラッセルは最後にハーラン・デグロートという獲物をおびき出し、狩ろうとするのだ。 |