それは彼女の出世作である『司祭』 がよく物語っている。これは同性愛を罪とするカトリック教会の聖職者がゲイであることに苦悩する姿を描いて物議を醸した作品だが、この映画はカトリックとゲイの関係をどうとらえるのかによってドラマの意味が大きく変わる。
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ゲイ・カルチャーに関する様々な著作を読むと、ゲイの関係が精神的な体験であるのみならず、カトリックとの深い結びつきを示す記述に出会うことが少なくない。たとえば、ゲイの現状をゲイの立場からリポートしたフランク・ブラウニングの『THE CULTURE OF DESIRE 』 には、カトリックの聖体拝領とゲイのある種の性愛行為が不可分に結びついていることが真剣かつ具体的に語られている。
『司祭』では、主人公と彼がバーで出会った男がセックスを終えたとき、男は彼がカトリックであることを見抜き、自分もカトリックであることを告白する。そしてこの映画では何よりも聖体拝領の行為が象徴的に描かれる。つまり、聖職者がたまたまゲイだったのではなく、セクシュアリティにも彼を聖職に導く要因があり、そうなると真実の聖体拝領が浮き彫りになるラストの意味と感動の深さはまったく違ったものになるのだ。
この『フェイス』にも、同じように精神的なドラマがある。カーライル扮するレイは、かつては理想に燃えて共産主義運動に参加していた。そして、いまの自分についてこのように語る。「俺は今35歳だ。24までは堅気だった。もし、まともに働いていれば倍の金は稼げただろう」
堅気の人生に背を向けて生きる彼の姿勢には、拝金主義に埋没するくらいなら奪うことでそれを拒もうとする意思を垣間見ることができる。その姿勢は、同じはみ出し者でも、『トレインスポッティング』で仲間を裏切り、自分の人生を選び取ろうとするレントンとは対照的なといえる。
ところがそんなレイは、彼が知らないところでその拝金主義に埋没し、身動きがとれなくなっていた仲間から裏切られることになるのだ。