『司祭』の主人公である若き司祭グレッグは自分がゲイであることを隠している。なぜならカトリックでは、その総本山であるローマ・カトリック教会が、生殖以外の目的で行う諸々の性行為と同じようにホモセクシュアリティは罪であるという判断をくだしていたからだ。しかしその秘密が露見し、
主人公は、教会権力の圧力や信徒の偏見のなかで苦悩し、追いつめられていく。そんなドラマは、カトリックの教義と同性愛の相克を描いているかのように見えるが、監督のバードはこの映画のなかでもうひとつの物語を語っている。
たとえば、アメリカにおけるゲイの実情をゲイの立場からリポートしたフランク・ブラウニングの『The Culture of Desire』という本には、ゲイのセックスとカトリック信仰の深い結びつきを示す興味深いエピソードがいくつか紹介されている。
著者ブラウニングが取材したある人物は、このふたつの結びつきをこのように説明している。カトリックの環境で成長した彼は、初めてペニスをくわえたときの体験は聖体拝領そのものだったという。彼によれば、カトリックの聖体拝領とは、プロテスタントのような象徴的な絆ではなく、
文字通り神の肉を食べ、神と一体になることであり、ペニスを食べるということは、肉体の衝動から魂を切り離し、自我を捨て去って一体となることを発見するある種の深遠な方法だというのだ。さらに同じ本のなかで、著名なゲイ作家アーミステッド・モーピンは、名前も知らずセックスすらしたことがない男たちでも、
同様の行為によって、わずかの間に相手がどんな人間であるのかがわかってしまうと語っている。また、それは神をすぐそばに感じるような宗教的な体験であるとも語っている。
『司祭』で、主人公グレッグがバーで出会った男とセックスを終えたとき、男は彼がカトリックであることを見抜き、自分もカトリックであることを告白する。その男が突然ミサに現れたとき、司祭であるグレッグは硬直し、彼に聖体拝領を行うことができず、教会は一瞬騒然とする。そこには、
秘密の露見を恐れるとか、相容れないふたつの世界の軋轢とは異なる微妙な緊張が漂っている。
突き詰めれば、この映画が語っているのは、司祭がたまたまゲイだったのではなく、彼はゲイであるがゆえにいっそう信仰へと導かれる、そういう意味で肉体と精神は不可分であるということなのだ(ちなみに『司祭』の脚本を書いたジミー・マクガヴァンは、その次の作品『HEART』で心臓移植を題材に、
同じように精神と肉体の深い結びつきを追求している)。そして『司祭』のラストでは、教義ではなく、肉体と精神が一体となった真実の聖体拝領とは何かが描きだされ、主人公の信仰が浮き彫りになるのである。
『ラビナス』はこの『司祭』と対比してみるとその内容がいっそう興味深く思える。なぜながら監督のバードは、カニバリズムを『司祭』とは対照的な象徴として使い、表面的な物語の向こう側にもうひとつの物語をつづっていくからだ。
■■カニバリズムとマニフェスト=デスティニー■■
『ラビナス』の主人公ジョン・ボイド大尉は、メキシコ=アメリカ戦争の最前線で生き延び、帰還を果たす。しかし実は彼が戦闘には向かない臆病な人間であることを知った将軍は、彼を、シェラ・ネバダ山脈の西にあるスペンサー砦に放逐する。そこは一年の半分が雪に閉ざされる場所で、
数人のはみ出し兵士たちがこれといって目的のない生活を送っている。ところが聖職者を装ったコルホーンという男が現れ、砦の住人たちは、カニバリズムの悪夢と誘惑のなかで、喰うか喰われるかの壮絶なサバイバルを強いられていく。
この映画では、メキシコ=アメリカ戦争については、冒頭部分に戦闘シーンがあるだけで、その後は舞台がスペンサー砦に限定されるため、物語とはあまり関係がないように見える。しかしドラマが進むに従って、この背景が意味を持つことになる。
筆者がまず注目したいのは、最前線から帰還したボイド大尉を囲む食事の場面である。彼は皿に盛られた血がしたたるステーキを見て、絶えられずに嘔吐する。実は彼は、最前線で戦闘中に恐怖のあまり意識を失い、気づいたときには戦死者たちの山に埋まっていた。敵に戦死者と間違われ、
他の死体とともに運ばれていたのだ。そして彼は死に物狂いで敵を倒し、逃げ帰ってきたのだった。
それゆえ彼は血がしたたるステーキに嘔吐するのだが、この食事の場面で印象的なのは、そんな主人公の反応だけではない。彼以外の兵士たちは、長いテーブルに整然と並ぶステーキを、まるで機械仕掛けのように、黙々と規則正しく口に運ぶ。この兵士たちと主人公のコントラストは、単によく訓練された者と臆病者の違いを現しているのではない。
アメリカは十九世紀に入ってから、ルイジアナ、フロリダ、テキサス、オレゴンなどを次々と自国の領土に加え、さらにメキシコ=アメリカ戦争によってカリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコを領有し、大陸国家を形成していく。そして、そんな流れのなかからアメリカが無限に膨張する天命を授かっているかのような<マニフェスト=デスティニー>の信念を培い、後の帝国主義的な性格の基盤となる。
そうした背景を踏まえてこの食事の場面を見るなら、この兵士たちはすでにその天命に完全に操られた人間たちを意味している。もっとはっきり言えば、『コックと泥棒〜』のサッチャリズムと同じように、この映画では<マニフェスト=デスティニー>がカニバリズムなのであり、自分を囲む兵士たちと同じように肉が喰えない主人公は、臆病者であると同時に、まだ自分の感情を失っていない人間でもあるのだ。
この食事の場面にそんな意味がこめられていることは、映画の後半、砦に現れた謎の男コルホーンと主人公との壮絶な闘争のなかで次第に明確になっていく。コルホーンは、かつては主人公と同じように戦闘に向かない臆病な男だった。ところが、「人肉を食べた人間は、相手の魂を自分のものにし、非常に強くなる」というインディアンの言い伝えを耳にし、それを実践し、変貌を遂げたのだ。
そのコルホーンはあらゆる手段を使い、主人公を自分の仲間に加えようとする。そんなふたりの戦いは、領土拡張戦争というカニバリズムと主人公の戦いの縮図にもなっているのだ。
『司祭』では、主人公は自己の肉体ゆえに、教義によって精神までも否定される苦悩を背負いながらも、肉体を通して真実の信仰に到達する。これに対して『ラビナス』では、主人公が生存のための生理的欲求によって、精神までも奪われる危機に直面し、残された精神力で肉体を守ろうとする闘争が描かれる。アントニア・バードは、『司祭』と『ラビナス』で、カニバリズムを対照的な象徴として使い、
肉体と精神が不可分であることゆえの存在の苦悩と、個人が個人であろうとすることの意味を浮き彫りにするのである。 |