■■藤本幸久『アメリカばんざい』■■
藤本幸久監督が計7回の渡米を経て作り上げたドキュメンタリー『アメリカばんざい』の導入部には、こんな場面がある。実際に軍隊を体験した元兵士が、高校の教室にやって来て、「軍に入れば資格が得られ、大学にも行ける」という甘い言葉に騙されないようにと訴える。
アメリカの徴兵制は、格差社会が生み出す貧困層に支えられている。貧しい若者たちは、悲惨な境遇から抜け出すために志願するが、兵士になっても明るい未来が開けるわけではない。
現在のアメリカでは、全人口の百人に1人がホームレスで、男性のホームレスの3人に1人が元兵士だという。この映画はそんな現実を浮き彫りにする。
かつてヴェトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争に送り出され、PTSDに苦しみ、ホームレスになり、暴力的な衝動に駆られ、どん底の生活を送る元兵士たち。息子の未来を戦争に奪われ、反戦活動を繰り広げる母親たち。戦争と格差をめぐる悪循環のなかで傷ついた彼らの表情や言葉には、深い哀しみと痛みが滲んでいる。
■■パウロ・モレッリ『シティ・オブ・メン』■■
ブラジルで貧困や格差の象徴になっているのが、大都市に存在するファヴェーラ(スラム街)だ。2003年に公開されたフェルナンド・メイレレス監督の『シティ・オブ・ゴッド』では、リオのファヴェーラの現実が、強烈なヴァイオレンスと緻密な構成で描き出されていた。
これに対して、メイレレスのパートナーであるパウロ・モレッリ監督の『シティ・オブ・メン』は、そんな現実から未来を切り開こうとする作品といえる。
父親を知らずに育ったラランジーニャと、幼い頃に父親を亡くし、結婚して二歳の息子を育てるアセロラ。ふたりは兄弟のような絆で結ばれている。だが、抗争が激化するファヴェーラに、過去を背負ったラランジーニャの父親が舞い戻るとき、彼らに試練が訪れる。
この映画は、ジョン・シングルトン監督のデビュー作『ボーイズン・ザ・フッド』に重なるような視点で、父親というテーマを掘り下げていく。貧困が支配する世界では、ロールモデル(手本)となる父親の不在が、悪循環を生み出す。主人公たちは、抗争と混沌のなかで自分の責任に目覚め、その連鎖を断ち切ろうとするのだ。
■■ケン・ローチ『この自由な世界で』■■
一方、現代のロンドンを舞台にしたケン・ローチ監督の『この自由な世界で』では、ヒロインがロールモデルを見失っていく。シングル・マザーのアンジーは、職業紹介会社を解雇されたことをきっかけに、ルームメイトと自分たちの紹介所を立ち上げる。仕事を軌道に乗せた彼女は、やがて不法移民を雇うようになり、自分と息子の未来のために、弱者を冷酷に踏みにじっていく。
この映画で注目しなければならないのは、アンジーと彼女の父親との関係だ。80年代のサッチャー政権の改革は、国家がコントロールしてきた広範な経済領域を市場と個人に委ね、結果として経済は活性化した。だがその影で、自助の精神の美名のもとに弱者が切り捨てられた。
勤勉な労働者として生きてきた父親は、その痛みを知っているからこそ、娘に警告する。しかし、サッチャーが生み出した自己中心的な社会で育った彼女にはそれがわからない。
監督のローチ自身もプレスのインタビューで以下のように語っている。「経営や取引きの才、人を押しのけても道を切り拓いて一番を取ることが重視される、「サッチャーの反革命」の申し子がアンジーです」。彼女は息子のためだと信じ、自分の行動を正当化しようとするが、弱者を犠牲にして得た金が母子の絆になることはないだろう。
■■ステファン・ゴーガー『地球でいちばん幸せな場所』■■
ヴェトナム系アメリカ人のステファン・ゴーガー監督が生まれ故郷ホーチミン市で撮った『地球でいちばん幸せな場所』では、偶然に出会う子供の存在が自分を見つめなおす鏡となる。
キャリアも金も手にしたフライトアテンダントのラン。経営難に陥っている市の動物園に住み込み、動物だけを話し相手にしている孤独な飼育員のハイ。彼らの恋愛の機会は限られているように見える。ランは不倫関係に行き詰まり、ハイは動物園の傍で働く女の子に片想いするしかない。
だが、両親を亡くし、叔父に引き取られて工場で働かされている10歳の少女トゥイが、出会うはずのなかったランとハイの運命を変える。家出して花売りとなったトゥイは、格差ゆえにすれ違うランとハイを結びつけ、3人は次第に家族のような関係を築いていく。
ゴーガー監督は、信奉するジョン・カサヴェテスから、嘘のない感情を引き出すスタイルだけではなく、家族に対する視点も引き継いでいる。つまり、人は血が繋がっているから家族なのではなく、必然から世界を共有していくことで家族になっていくということだ。
■■ニキータ・ミハルコフ『12人の怒れる男』■■
そして、ニキータ・ミハルコフ監督の『12人の怒れる男』では、子供を鏡とすることによって、個人と国家が実に見事に結びつけられていく。チェチェン人の少年がロシア人の養父を殺害した事件の裁判。その陪審員に選ばれた12人の男たちは、少年の容疑は明白であり、すぐに評決に達すると考えていた。
有罪支持派が圧倒的多数を占める状況が、議論を重ねるに従って覆っていく展開は、シドニー・ルメット監督のオリジナル作品と同じだが、ドラマが目指すものはまったく違う。
脚本を手がけたのは、ミハルコフと『父、帰る』のモイセイェンコとノヴォトツキイ=ヴラソフのコンビ。『父、帰る』では、具体的な背景が省略され、ドラマが父親と息子の関係に集約されていた。この映画では、閉ざされた空間のなかで、陪審員と少年の関係が、象徴的な意味で父親と息子のそれに重ねられていく。 |