本書の冒頭の謝辞は以下のような文章で始まる。「わたしが『サンフランシスコ・クロニクル』紙の記者でなかったなら、本書が書かれることはなかっただろう。同紙は、一人の映画スターがエイズにかかって話題になる前から、この疫病を徹底的に報道する価値のある正当なニュース素材だと認めていたが、アメリカの日刊紙でこのような姿勢をとった新聞はほかになかったのである。『クロニクル』のこのような見識ある態度のおかげで、わたしは一九八二年以来自由にこの疫病を取材できたし、八三年からはほとんどエイズの報道に専念することができた」
シカゴ郊外で育ち、入学したオレゴン大学の学生新聞でジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせたランディ・シルツは、20歳のときにゲイであることをカミングアウトした。当時はまだホモフォビア(同性愛嫌悪)の風潮が根強く、成績優秀で卒業した彼は地方ではなかなか思うような仕事に就くことができなかった。そして、サンフランシスコに移って、フリーのジャーナリストとして活動していた彼を記者として採用したのが、『サンフランシスコ・クロニクル』だった。そんな巡り合せ、幸福な出会いがなかったなら、この本は書かれなかったともいえる。
エイズはなぜアメリカで広がったのか。引用した謝辞の冒頭からもその一因を読み取ることができるだろう。1980年にゲイたちが正体不明の奇病にかかりはじめてから5年近くたつまで、医療機関、公衆衛生機関、連邦及び民間の科学研究機関、マスメディア、ゲイ社会の指導者たちは、結束して対応することがなかった。本書のプロローグで印象に残るのは、「人びとが死んでも〜」という言葉が繰り返される件だろう。
「人びとが死んでも、レーガン政府の官僚は政府関係の科学者の要請を無視し、エイズ研究に充分な資金を出さず、ついにはこの疫病を全国に蔓延させてしまった」
「人びとが死んでも、科学者たちはなかなかエイズの流行にしかるべき配慮を示さなかった同性愛者を苦しめる病気などを研究してもあまり名声をあげられないと思ったからである」
「人びとが死んでも、公衆衛生当局とそれを監視する指導的政治家たちは、この病気の流行を阻止するのに必要な確固たる措置をとらず、公衆衛生よりも政治を優先させた」
「人びとが死んでも、ゲイ社会の指導者たちはこの病気を政治の道具にし、政治的教条主義におちいって人命の保護をなおざりにした」
「人びとが死んでも、誰も注意を払わなかった。マスメディアが同性愛者についての記事を書きたがらず、とくにゲイの性行動に関する記事を敬遠したからである。新聞やテレビはこの病気についての議論を極力避け、その間に死亡者が無視できないほど増えて、犠牲者は社会ののけ者だけではなくなった」
本書は、1976年、ザイールのキンシャサで医療活動に従事するデンマーク人のグレーテ・ラスクに奇妙な症状が表れるという予兆から始まる。そして、1980年から85年の間にアメリカでエイズが拡大していく過程とその背景が、年毎に克明に浮き彫りにされていく。
筆者が本書を読んだのはかなり昔のことで、その内容を細部まで正確に思い出すことはできない。本書を久しぶりに引っぱり出してみたのは、ジャン=マルク・ヴァレ監督が実話を映画化した『ダラス・バイヤーズクラブ』を観たからだ。
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