寡作な小説家トマス・ハリスのベストセラー『レッド・ドラゴン』『羊たちの沈黙』『ハンニバル』の三作品を、“ハンニバル・レクター”三部作(あるいはシリーズ)と呼ぶことは簡単だが、三作品の内容から、そう呼ぶに相応しい作品相互の緊密な関係、一貫した主題やヴィジョンを抽出することは必ずしも容易ではない。
確かにレクターは三作品に登場するが、『レッド・ドラゴン』ではその登場場面がかなり限られている。プロファイリングを駆使し、レクターが鍵を握る犯罪捜査に着目すれば、『レッド・ドラゴン』と『羊たちの沈黙』は結びつくが、復讐劇を軸とした『ハンニバル』は異質なものとなる。レクターとクラリスの関係に着目すれば、今度は『羊たちの沈黙』と『ハンニバル』の結びつきだけが際立つことになってしまう。
しかし、この三作品は、そうした見方とはまったく違う次元で、レクター三部作と呼ぶに相応しい魅力を放っている。その魅力を探るうえで、筆者がまず注目したいのは、それぞれの物語から浮かび上がってくる儀式、特に変身の儀式だ。
『レッド・ドラゴン』で、<噛みつき魔>や<レッド・ドラゴン>と呼ばれる殺人犯は、ウィリアム・ブレイクの水彩画<大いなる赤き竜と日をまとう女>に激しく引きつけられ、竜に変身するための儀式として殺人を繰り返す。『羊たちの沈黙』で、<バッファロー・ビル>と呼ばれる殺人犯も、犠牲者の遺体から発見されたサナギが暗示するように、現在の自分から脱皮し、変身するために殺人を繰り返す。
そして、FBIに追われる連続殺人犯というわけではないが、『ハンニバル』に登場するメイスン・ヴァージャーも、これに加えてよいだろう。『ハンニバル』には、彼についてこんな記述がある。
「世界中で行われるクリスマスの聖体拝領の儀式に際して、篤い信仰を抱く者たちは、パンとブドウ酒がキリストの肉体と血に変わる“全実体変化”の奇跡によって、救い主の肉体と血を食らう。メイスンはその日を境に、“全実体変化”を必要としない、もっと生々しい儀式の準備を開始したのだった。そう、あのハンニバル・レクター博士が生きながら食われる儀式の準備に――」
彼らは、それぞれの儀式を通して、人間以上の存在になろうとする。メイスンの儀式に変身はないが、レクターが食われる儀式には明らかに超越への欲望が秘められている。しかし、彼らは結果的に人間以上の存在になることはできない。
それは必ずしも、ウィル・グレアムやクラリスによって阻止されるという意味ではない。彼らは、根本的に自分を越える資質を欠き、突き詰めれば象徴的な儀式に操られているに過ぎないからだ。
この三作品では、そんな彼らとの対比を通して、真にその資質を備えた人間の存在が浮き彫りにされ、自己の超越をめぐる物語が描きだされる。その人間とはもちろんレクターであり、そして、グレアムとクラリスだ。
『レッド・ドラゴン』では、レクターの登場場面は限られているが、これは紛れもなくレクターとグレアムの物語である。かつてグレアムはレクターの正体を見破り、深手を負わされながらも彼を捕えた。レクターは、「わたしたちが瓜二つだから」捕えることができたのだとグレアムに語る。
グレアムは妻子との平穏な生活を望んでいるが、彼のなかには普通の人間とは違う資質が潜んでいる。彼には、レクター以前に連続殺人犯を射殺し、その後しばらく精神病院に収容された過去がある。妻から、冗談で犯罪者の傾向があると言われても、さらりと受け流すことができない。
レクターは<レッド・ドラゴン>を操って、グレアムが抑え込もうとしているその資質を引き出そうとする。実際グレアムは、捜査のなかで資質の一部を露呈する。彼は、《タトラー》の記者ラウンズが<レッド・ドラゴン>の手にかかるという結果を心のどこかで察知しながら、カメラの前で親しげに片手を記者の肩にかけるのだ。レクターはもちろんその結果に満足する。しかしグレアムは、あくまで境界のこちら側で生きようとし、レクターによって人生を狂わされてしまう。
これに対して、『羊たちの沈黙』のクラリスは、自分の世界にレクターが深々と介入することを許し、レクターも彼女に、グレアムの場合とは違う強い関心を持つ。彼女は普通の人間として生きようとはしていない。父親の死や孤児の体験をめぐるトラウマを背負う彼女は、他者を簡単には寄せ付けない。
FBIという世界のなかで、過去を乗り越えることを求め、信頼する上司クロフォードのためなら迷わず人も殺せると確信している。レクターは、まだ訓練生である彼女が<バッファロー・ビル>の捜査に加わる資格を与え、彼女の秘められた資質を引き出していく。つまり、サナギから成虫に脱皮するのは、<バッファロー・ビル>ではなく、クラリスなのだ。
そして、『ハンニバル』では、これまで超越的な存在だったレクターが大きく変化する。『羊たちの沈黙』のなかで、クラリスは彼にこう言い放った。「あなたは、その強力な洞察力を自分自身に向けるだけの勇気があるのか?(中略)自分自身を見て真実を書くのよ。これ以上に適切で複雑な対象はないはずだわ。それとも、あなたは自分自身が怖いの?」
レクターはその言葉に応えるかのように、悲痛な過去を直視する。一方クラリスは、FBIや法という束縛からも解き放たれ、ふたりは、過去も善悪も越えた境地に至る。
この三部作はすべて映画化されているが、その作品には、こうした原作の世界観が読みとられているものと、そうでないものがある。
大成功を収めた『羊たちの沈黙』では、レクターとクラリスの関係が鮮やかに描きだされている。これは監督のジョナサン・デミによるところが大きい。彼はこれまで、価値観や立場が対極にあるような主人公たちが、意外な成り行きで運命共同体を形成し、対立しながらも苦境を乗り切るドラマを一貫して描きつづけてきた。それはこの原作にも見事に当てはまる。
リドリー・スコット監督の『ハンニバル』は、アクションやグロテスクなイメージにはインパクトがあるものの、最終的には原作の独自の世界観が失われてしまう。なぜなら、クラリスは最後にあらゆる束縛から解放されるのではなく、FBI捜査官という立場を貫き、その見えない牢獄にとどまってしまうからだ。
小説『レッド・ドラゴン』は、以前にマイケル・マン監督によって『刑事グラハム 凍りついた欲望』のタイトルで映画化されている。この作品は終盤に原作とは異なる展開を見せ、グラハムが暴走するように連続殺人犯に迫るため、彼とレクターの緊張関係は失われてしまう。
これに対して、この『レッド・ドラゴン』では、『羊たちの沈黙』につづいてテッド・タリーが脚色を手がけていることもあり、彼らの繋がりがしっかりと見極められている。つまり、レクターとグレアムは<レッド・ドラゴン>を媒介として対峙し、水面下で激しくせめぎあっているのだ。 |