ジョナサン・デミ・インタビュー
Interview with Jonathan Demme


1989年11月 電話(ニューヨーク−東京)
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(初出:「マリクレール」1989年、若干の加筆)
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あらゆる境界を取り込み、それを超えていく情熱
――ヘイシャン・ミュージック・コンピレーション『コンビット』

 

 ジョナサン・デミは筆者が大好きな映画監督のひとりである。日本で彼が注目を集めることになった作品とえいば、おそらくトーキング・ヘッズのライブ・ドキュメント『ストップ・メイキング・センス』だろう(但し、注目されたのはトーキング・ヘッズのパフォーマンスだけで、 監督にはあまりスポットが当たらなかったような気もする)。その『ストップ〜』につづいてデミが監督した劇映画が『サムシング・ワイルド』。88年に一般公開されて、しばらく前にビデオ化されたこの作品は、ロード・ムーヴィーやコメディ、 スリラーなどの要素を盛り込み、デイヴィッド・バーンやファイン・ヤング・カニバルズ、ジミ・クリフなどセンス抜群のナンバーを散りばめつつ、保守的なヤッピーの煮え切らない体質をユーモラスに風刺した快作だった。

 アメリカでは昨年(88年)、『サムシング・ワイルド』につづくマシュー・モディン、ミシェル・ファイファー主演のスクリューボール・コメディ『Married to the Mob(ビデオ・タイトル:愛されちゃってマフィア)』が公開されて話題を集め、 ジョナサン・デミは「ローリング・ストーン」誌で、いま最もホットな監督として大きくフィーチャーされていた。

 いま最もホットな監督というと、もしかするとかなり若い人物を想像されるかもしれないが、彼は1944年2月22日生まれの45歳。世の中には、才能があって、情熱があって、しかも誠実な人間が、なかなか名声や金と結びつかないということがよくあるが、彼はその代表のような人物だ。 実は彼は、70年代の初めにコッポラやマーティン・スコセッシを発掘したB級映画の帝王ロジャー・コーマンにその才能を見出され、映画人としてのキャリアは、もうすぐ20年になろうとしている。しかも80年には、ニューヨーク批評家協会の最優秀監督賞も受賞していたりもするのだが、 45歳にして”ホット・ディレクター”と言われるところがまた彼らしい。

 ところが、日本でのデミに対する評価は相変わらずひどい。とにかく新作の『Married〜』が、劇場公開もされないままに近くビデオ化されるというのだから悲惨である。ところが、ここにきて意外なところから彼の名前が飛び出してきた。 ヘイシャン・ミュージック(ハイチの音楽)のコンピレーション・アルバム『コンビット〜バーニング・リズム・オブ・ハイチ』のプロデューサーに彼の名前がクレジットされていたのである。彼は87年にハイチのドキュメンタリーを製作したりもしているので、そこらへんと繋がりがあるに違いない。 というようなことを想像しているときに、なんと彼に電話インタビューするという幸運にめぐまれた。

 40分弱のインタビューだったが、デミはものすごいスピードと熱意で、音楽や映画のことを話してくれた。きっとこのインタビューを読んだら、あなたもデミのことが好きになってしまうことだろう。

――アメリカのメジャーのレコード会社からヘイシャン・ミュージックのコンピレーションが出るのは初めてのことだと思うのですが、あなたはこの『コンビット』でどのような役割を果たしているのですか。

ジョナサン・デミ(以下JD) 2年前にハイチを扱ったドキュメンタリー『Haiti : Dreams of Democracy』を作ったことが最初のきっかけだったんだ。このドキュメンタリーにかかわった人々のなかに、今回のアルバムで演奏しているハイチのバンド、レ・フレール・パランがいたんだ。 それで1年くらい前に、彼らと会ったときに、また別の企画を一緒にやってみないかって聞いてみたんだ。というのも、どうしてハイチの外では、人々がハイチの音楽を楽しむことができないんだろうということが頭にあって。答はこれまでハイチの音楽を聴ける機会があまりなかったからだ。

 それからしばらくして、わたしはニューオリンズに行って、ネヴィル・ブラザースのビデオ・クリップを作ったんだが、そのときにシリル・ネヴィルもハイチにとても興味をもっていることを知ったんだ。そこで、ヘイシャン・ミュージックのコンピレーションを作るというわたしの計画を話してみたら、 シリルがのってくれて、それで一緒にA&Mレコードに話を持っていって、実現することになったんだ。わたしは、ふたりの共同プロデューサーと一緒に曲を選んだんだけど、手元にはものすごい枚数のハイチの素晴らしいアルバムがあって、本当に大変だったよ。このアルバムはぜひ成功させたいんだ。 スペースの都合でアルバムに入れられなかった曲がたくさんあって、2枚目も作りたいんだよ」


◆プロフィール◆

ジョナサン・デミ
1944年2月22日、ニューヨーク州ボールドウィン生まれ。フロリダ大学在学中に学内新聞に映画評を執筆。卒業後、エンバシー・ピクチャーで宣伝の仕事に就いた後、ロジャー・コーマンと出会い、 意気投合。74年、コーマン主宰のニュー・ワールド・ピクチャーから「女刑務所・白昼の暴動」で監督デビューした。80年「メルビンとハワード」(未)でNY批評家協会監督賞を受賞。 84年「ストップ・メイキング・センス」で全米映画批評家協会ドキュメンタリー映画賞を受賞。91年「羊たちの沈黙」でアカデミー監督賞に輝いた。他にTV、ミュージック・ビデオの演出も多数。
(『フィラデルフィア』プレスより引用)

 
コンビット
〜バーニング・リズム・オブ・ハイチ

 
  ◆曲目◆

01.   リト・コメスヤル(コマーシャル・リズム)
Rit Komesyal(Commercial Rhythm)
02. リベルテ(リバティー)
Libete(Liberty)
03. メン・ニメウォ・ア(ヒアズ・ザ・ナンバー)
Men Nimewo-A(Here's the Number)
04. レバティ・カイラ(レビルド・ザ・ハウス)
Rebati Kay-La(Rebuild the House)
05. サン・ヌー・キ・ラ(マイ・ブラッド)
San Nou Ki La(My Blood)
06. アイチ・パ・フォレ(ハイチ・イズ・ノット・ア・フォレスト)
Ayiti Pa Fore(Haiti Is Not A Forest)
07. ヴァクシネ(ヴァクシネイト)
Vaksine!(Vaccinate!)
08. マリオ・マリオ
Mario Mario
09. ララマン
Raraman
10. エ・エ・エ・エ・エ
E'E'E'E'E'
11. コンビット(ワーキング・トゥゲザー)
Konbit(Working Together)
12. チョウルNo.3
Tchoul No.3

  ◆演奏◆

ヌムール・ジャン・バティスト(1,12)、マグナム・バンド(2)、スカ・シャ#1(3)、サカド(4)、ネヴィル・ブラザーズ・アンド・レ・フレール・パラント(5)、マンノ・シャルマーニュ(6)、サンバ・ヨー(7)、タブー・コンボ(8)、ミニ・オール・スターズ(9)、D・P・エクスプレス(10)、レ・フレール・パラント・アンド・ネヴィル・ブラザーズ(11)


(A&M Records)
 

――ドキュメンタリーに音楽、どうしてそれほどハイチに引かれるのでしょう。

JD 10年くらい前にハイチのアートに興味を持ちだしたのが、そもそもの始まりなんだ。ハイチの風景を画いた絵を見て、その風土に興味を感じたんだ。それから、たぶん7〜8年前のことだと思うけど、ハイチからニューヨークに移住する人の数が急増して、ハイチの人々のコミュニティができるようになって、 彼らと話をするうちにニューヨーカーのわたしは、彼らの国への興味がどんどん膨らんでしまって。そのうち話を聞いているだけでは満足できなくなって、とうとう3年前にハイチに行ってしまったんだよ。そして、そこでとても貴重な体験をしたんだ。デュバリエ大統領が国外に脱出して1年後のことで、 大統領を選ぶ最初の選挙が行われようとしているところだった。それまで30年もデュバリエ大統領が独裁体制をしいていたんだ。誰もが民主主義の話に熱中して、興奮していた。アメリカはもちろん民主主義の国なんだけど、それは、お金や家を持っている人々のためのものであって、 収入のない人や路上で暮らす人にはあまり意味のないものだ。だから、ハイチの人々すべてが民主主義に夢を抱いている光景を見て、わたしはすごく感動してしまったんだよ。ドキュメンタリーを作ったのは、このユニークな国の歴史的な瞬間を記録したかったからなんだ。

――あなたがまだ小さかった頃、両親がカリブ海に連れていってくれたり、ハイチの話を聞かせてくれたりしたそうですけど、その影響もあるんじゃないですか。

JD ハッハッハ。それもあるね。しかしどうしてそんなことを知ってるんだい。確かにその通りなんだ。わたしがまだ小さかった頃、父親はアメリカン・エアラインで働いていたんだ。それから7歳のときだったか、両親がハイチに行ってきて、とても興奮していたことをよく覚えているよ。 父親が、"ゾンビ"を見たというんで、もう本当にびっくりしてしまった。とにかく子供にとってハイチはとても魅力的なところだからね。===> 2ページへ続く

 

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