トマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』に、どちらかといえば脇役として登場したハンニバル・レクターは、続く『羊たちの沈黙』でより大きな存在感を放つようになり、完結篇ともいえる『ハンニバル』では、そのタイトルが物語るように、主人公の地位を獲得した。
その『ハンニバル』の物語のなかでも、特に印象に残るのが、ハンニバルが、まだ幼い頃に体験した悲劇の記憶をたぐり寄せる場面だ。ハンニバルは、リトアニアの名門貴族の家に生まれた。
しかし、1944年、彼が6歳の時に、彼の一家は戦火に巻き込まれる。ドイツ軍の砲撃は、彼の両親の命を奪い、広大な領地に深い爪跡を残した。ハンニバルと彼の妹のミーシャは、森の狩猟小屋を占拠した脱走兵の一団に捕えられ、厩に閉じ込められる。やがて飢えた脱走兵たちは、厩からミーシャを引きずり出し、彼女が戻ってくることはなかった。
この小説を映画化したリドリー・スコット監督の『ハンニバル』では、このエピソードにはまったく触れられない。そのため、ハンニバルというキャラクターが漂わせるイメージにも大きな違いがある。
トマス・ハリスが7年ぶりに発表した『ハンニバル・ライジング』では、この1944年の悲劇から物語が始まり、若き日のハンニバルの姿が描き出されていく。しかし、『ハンニバル』に盛り込まれたエピソードが、そのまま引き継がれているわけではない。
『ハンニバル』では、妹が戻ってくるように祈る6歳のハンニバルが、斧を振り下ろす音を耳にする。それから彼は、脱走兵たちが便所代わりにしていた穴のなかで、ミーシャの乳歯を発見する。これに対して、『ハンニバル・ライジング』では、ハンニバルが、激しいショックのために言葉と部分的な記憶を失い、異なる展開を見せるのだ。
トマス・ハリスのこのシリーズには、作品を追うごとに、ハンニバル・レクターというキャラクターが進化していくような魅力がある。進化というのは、キャラクターそのものが肉付けされ、ひとり歩きしていくということではない。むしろハンニバルは、物語に溶け込み、いつしか物語を取り込んでしまうことによって、その存在感が増していく。
たとえば、『レッド・ドラゴン』では、元FBI捜査官のウィル・グレアムと連続殺人犯レッド・ドラゴンの対決が軸になり、ハンニバルの登場場面は限られている。しかし、優れた精神科医にして凶悪な連続殺人犯であり、反社会的精神病質者とみなされるハンニバルの影は、その対決の至るところに見られる。
かつてグレアムは、ハンニバルの正体を見破り、深手を負わされながらも彼を捕えることに成功した。ハンニバルはそんなグレアムに、「あんたがわたしを捕まえたわけは、わたしたちが瓜二つだからさ」と語る。グレアムは妻子との平穏な生活を望んでいるが、彼のなかには一般人とは違う資質が潜んでいる。彼には、ハンニバル以前に、連続殺人犯を射殺し、その後しばらく精神病院に収容された過去がある。
そんな彼は、妻から冗談で犯罪者の傾向があると言われても、さらりと受け流すことができない。ハンニバルは、精神異常犯罪者用州立病院のなかから、彼のことを崇拝するレッド・ドラゴンを操り、グレアムを追い詰める。その結果、境界のこちら側に踏み止まろうとするグレアムは、その人生を狂わされてしまうのだ。
『羊たちの沈黙』のハンニバルは、周到な計画性と凶暴性を発揮する。連続殺人犯バッファロウ・ビルの捜査に協力するふりをして、警備にあたる警官を殺害し、そして欺き、逃亡を果たすのだ。しかし、彼のキャラクターについて考える上で、より興味深いのは、彼に協力を求めるFBI訓練生クラリス・スターリングが背負うトラウマであり、彼女が見る悪夢だ。ハンニバルは、バッファロウ・ビルに関する手掛かりと引換えに、彼女から子供時代の記憶を引き出し、深層心理を探っていく。 |