ハンニバル・ライジング
Hannibal Rising


2007年/イギリス=チェコ=フランス=イタリア/カラー/121分/シネスコ/ドルビーSRD
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(初出:『ハンニバル・ライジング』劇場用パンフレット)

 

 

進化する怪物“ハンニバル・レクター”

 

 トマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』に、どちらかといえば脇役として登場したハンニバル・レクターは、続く『羊たちの沈黙』でより大きな存在感を放つようになり、完結篇ともいえる『ハンニバル』では、そのタイトルが物語るように、主人公の地位を獲得した。

 その『ハンニバル』の物語のなかでも、特に印象に残るのが、ハンニバルが、まだ幼い頃に体験した悲劇の記憶をたぐり寄せる場面だ。ハンニバルは、リトアニアの名門貴族の家に生まれた。

 しかし、1944年、彼が6歳の時に、彼の一家は戦火に巻き込まれる。ドイツ軍の砲撃は、彼の両親の命を奪い、広大な領地に深い爪跡を残した。ハンニバルと彼の妹のミーシャは、森の狩猟小屋を占拠した脱走兵の一団に捕えられ、厩に閉じ込められる。やがて飢えた脱走兵たちは、厩からミーシャを引きずり出し、彼女が戻ってくることはなかった。

 この小説を映画化したリドリー・スコット監督の『ハンニバル』では、このエピソードにはまったく触れられない。そのため、ハンニバルというキャラクターが漂わせるイメージにも大きな違いがある。

 トマス・ハリスが7年ぶりに発表した『ハンニバル・ライジング』では、この1944年の悲劇から物語が始まり、若き日のハンニバルの姿が描き出されていく。しかし、『ハンニバル』に盛り込まれたエピソードが、そのまま引き継がれているわけではない。

 『ハンニバル』では、妹が戻ってくるように祈る6歳のハンニバルが、斧を振り下ろす音を耳にする。それから彼は、脱走兵たちが便所代わりにしていた穴のなかで、ミーシャの乳歯を発見する。これに対して、『ハンニバル・ライジング』では、ハンニバルが、激しいショックのために言葉と部分的な記憶を失い、異なる展開を見せるのだ。

 トマス・ハリスのこのシリーズには、作品を追うごとに、ハンニバル・レクターというキャラクターが進化していくような魅力がある。進化というのは、キャラクターそのものが肉付けされ、ひとり歩きしていくということではない。むしろハンニバルは、物語に溶け込み、いつしか物語を取り込んでしまうことによって、その存在感が増していく。

 たとえば、『レッド・ドラゴン』では、元FBI捜査官のウィル・グレアムと連続殺人犯レッド・ドラゴンの対決が軸になり、ハンニバルの登場場面は限られている。しかし、優れた精神科医にして凶悪な連続殺人犯であり、反社会的精神病質者とみなされるハンニバルの影は、その対決の至るところに見られる。

 かつてグレアムは、ハンニバルの正体を見破り、深手を負わされながらも彼を捕えることに成功した。ハンニバルはそんなグレアムに、「あんたがわたしを捕まえたわけは、わたしたちが瓜二つだからさ」と語る。グレアムは妻子との平穏な生活を望んでいるが、彼のなかには一般人とは違う資質が潜んでいる。彼には、ハンニバル以前に、連続殺人犯を射殺し、その後しばらく精神病院に収容された過去がある。

 そんな彼は、妻から冗談で犯罪者の傾向があると言われても、さらりと受け流すことができない。ハンニバルは、精神異常犯罪者用州立病院のなかから、彼のことを崇拝するレッド・ドラゴンを操り、グレアムを追い詰める。その結果、境界のこちら側に踏み止まろうとするグレアムは、その人生を狂わされてしまうのだ。

 『羊たちの沈黙』のハンニバルは、周到な計画性と凶暴性を発揮する。連続殺人犯バッファロウ・ビルの捜査に協力するふりをして、警備にあたる警官を殺害し、そして欺き、逃亡を果たすのだ。しかし、彼のキャラクターについて考える上で、より興味深いのは、彼に協力を求めるFBI訓練生クラリス・スターリングが背負うトラウマであり、彼女が見る悪夢だ。ハンニバルは、バッファロウ・ビルに関する手掛かりと引換えに、彼女から子供時代の記憶を引き出し、深層心理を探っていく。


◆スタッフ◆

監督   ピーター・ウェーバー
Peter Webber
原作/脚本 トマス・ハリス
Thomas Harris
製作 ディノ・デ・ラウレンティス、マーサ・デ・ラウレンティス、タラク・ベン・アンマー
Dino De Laurentis, Martha De Laurentis, Tarak Ben Ammar
撮影監督 ベン・デイヴィス
Ben Davis
編集 ピエトロ・スカリア、バレリオ・ボネリ
Pietro Scalia, Valerio Bonelli
音楽 アイラン・エシュケリ、梅林茂
Ilan Eshkeri, Shigeru Umebayashi


◆キャスト◆

ハンニバル・レクター   ギャスパー・ウリエル
Gasperd Ulliel
レディ・ムラサキ コン・リー
Gong Li
グルータス リス・エヴァンズ
Rhys Ifans
コルナス ケヴィン・マクキッド
Kevin McKidd
ポピール警視 ドミニク・ウェスト
Dominic West
ドートリッヒ リチャード・ブレイク
Richard Brake
ミルコ スティーヴン・ウォルターズ
Stephen Walters
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(配給:東宝東和)
 


クラリスにとって、子供時代の最悪の記憶は、父親の死だ。警察官だった父親は、強盗に撃ち殺されたのだ。その後は、母親が一家を支えることになり、長女だったクラリスはやがて、母親の従姉妹で牧場を営む夫婦に預けられる。10歳のクラリスはそこで、屠殺される子羊たちがあげる悲鳴を耳にし、目のよく見えない馬と逃げ出した。そしていまでも、子羊たちの悲鳴で目覚めることがある。

 ハンニバルがクラリスに特別な関心を持っていることは間違いないが、それらはあくまで彼女の個人的な体験であり、人間の価値基準が通用しない怪物として超越的な高みにある彼には、関係のないことのように見える。しかし、彼女のこのトラウマや悪夢は、『ハンニバル』におけるハンニバルのキャラクターの進化に繋がっていく。

 フィレンツェに潜伏する彼には、トラウマがあり、悪夢がある。「そのうち両眼をひらくと、彼は突然、完璧に目覚めた。はるか昔に食われて死んだ妹ミーシャの夢が、断ち切られることなく、覚醒した意識に流れ込んでいる」。さらに、アメリカに向かうジャンボ機の機内では、彼がミーシャの夢から逃れることができず、「突き刺すような悲鳴」をあげて目覚めるのだ。

 『レッド・ドラゴン』では、共通する資質を持つハンニバルとグレアムが、レッド・ドラゴンを媒介として、激しくせめぎ合っていた。『羊たちの沈黙』と『ハンニバル』では、それとは異なる次元で、ハンニバルとクラリスの深層心理が掘り下げられ、ふたりは、幼児期の体験と悪夢を通して深く結びつき、世界を共有していくことになる。

 そして、これらの物語に先立つ若き日のハンニバルを描く『ハンニバル・ライジング』では、彼の幼児期の体験と悪夢が、『ハンニバル』に盛り込まれたエピソードとは異なる視点からとらえられていく。冒頭でも少し触れたように、小説と映画の『ハンニバル・ライジング』では、6歳のハンニバルが、部分的な記憶を失うことがひとつのポイントになる。

 そこで生きてくるのが、「ヘンゼルとグレーテル」をモチーフにした悲劇と悪夢の描写だ(小説には、ハンニバルの乳母が、2歳の彼に「グリム童話」を読んで聞かせるというエピソードも盛り込まれている)。成長したハンニバルは、男たちがミーシャを連れ去る悪夢に悩まされるが、ミーシャに何が起こり、男たちが何者だったのかを思い出すことができない。この小説と映画は、彼の不安と恐怖と怒りを、残酷なお伽話を通して表現している。

 そんなハンニバルとレディ・ムラサキの関係は、彼とクラリスのそれに通じるものがある。レディ・ムラサキにも、広島への原爆投下によって自分の世界を失った過去があり、彼女とハンニバルの間には、母親と息子とも女と男ともいえる感情が垣間見られる(小説には、ハンニバルの叔父で、レディ・ムラサキの夫であるロバートが登場し、急死するまでハンニバルの父親代わりとなる)。しかしもちろん、レディ・ムラサキとの絆が、ハンニバルの深い傷を癒すことはない。

 壮絶な復讐へと突き進んでいくハンニバルには、『レッド・ドラゴン』以降の彼のキャラクターにはない激しい情念がある。そんな彼の姿は、むしろ『羊たちの沈黙』のクラリスを想起させる。

 ハンニバルは、彼女にこう尋ねる。「きみの手でバッファロウ・ビルを捕え、キャザリンを無事救出したら、子羊たちの悲鳴を止めることができる、と思うかね、子羊たちも無事だし、自分がまた闇の中で目を覚まして子羊たちの悲鳴を聞かなくなる、と思うかね? クラリス、どうだ?」。彼女の答えは、「はい。判りません。事によると」だが、実際には、それを完全に肯定するような強い意志を持って捜査にのめり込んでいく。

 そして、若きハンニバルもまた、それを成し遂げれば悪夢を消し去れるかのように、復讐にのめり込む。しかし、そのクライマックスで彼は、グルータスから恐ろしい真実を告げられる。それはまさしく、新たな悪夢の始まりであり、彼の目には怪物が宿り出すのだ。

《参照/引用文献》
『レッド・ドラゴン』トマス・ハリス●
小倉多加志訳 (早川文庫、1989年)
『羊たちの沈黙』トマス・ハリス●
菊地光訳 (新潮文庫、1989年)
『ハンニバル』トマス・ハリス●
高見浩訳 (新潮文庫、2000年)
“Hannibal Rising”by Thomas Harris●
(William Heinemann, 2006)


(upload:2007/11/11)
 
 
《関連リンク》
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――トマス・ハリスの“ハンニバル・レクター”三部作と映画化をめぐって
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