「まったくその通りです。詩人のハーフェズは、様々なものを何度も超えて、最終的に全然違うものにたどり着きました。この映画のなかで、現代のハーフェズも、様々な道をたどり、ずっと動き続ける。彼は、どこか明確な場所に向かうのではなく、ぐるぐる回るような動きをしています。だから観客は、彼がここまで来たから、次はこちらに向かうとは考えない。ぐるぐる回る動きから何かを感じ取れる映画にしたかったのです」
引用されるハーフェズの詩は、酒杯や美女のことばかりを詠っているように見えるが、神秘主義ではそれらが象徴的な意味を持つ。
「ハーフェズの詩のなかで、お酒は、神にたどり着く道を表現しています。彼は全然お酒を飲まなかったともいわれます。でも、映画ではそういう意味を明確に描いてはいません。お酒を文字通りに取り、罪だと考える人たちがいるからです。ハーフェズとシャムセディンは、酒杯を手にしていたことを見咎められ、鞭で打たれます。でも後で僧侶が確かめてみると、お酒ではないことがわかる。認識の違いをそんなふうに象徴的に表現しています」
さらに、この映画では、水、火、土、風という宇宙の四元素が強調され、心を映す鏡や酒杯のイメージと結びついて、奥深い世界を切り開いていく。
「その通りです。モフティ師が呼び寄せた少年は、目をつぶって瞑想し、衰弱したナバートの心のなかに男女の愛を見ます。でも、モフティから何が見えたか問われると、その四元素を答える。モフティは、ターバンも髭も立派で、位の高い宗教者です。それなのに、愛が根源的なものから生まれてくることがわからないのです。そこで場面が変わると、火のカットになる。普通に見れば、ハーフェズが何か作業をしているように思えますが、彼の心が燃えているのを暗示しています」
罪を問われてハーフェズの称号を剥奪されたシャムセディンとナバートの夫となったことに苦悩するシャムセディン。ふたりは、彷徨い続けるうちに、上から称号を与えられるのではなく、市井の人々からハーフェズと呼ばれるようになる。それは、彼らが、詩人のハーフェズのように、真の愛に目覚めることを意味してもいる。
「ふたりは、最初はナバートの見た目に恋をするんです。でも、その見た目を超えないといけない。彼らは、心を表す鏡で繋がっていて、鏡の請願という儀式のなかで心を磨いていく。ひとりのシャムセディンは、お婆さんと結婚することで、その魂を救おうとする。もうひとりのシャムセディンは、降り注ぐ水で身体を清め、純粋になる。そして、最後の場面で、愛のシンボルであるナバートが鏡を拭く。ふたりがすべてを超えたから、愛そのものが鏡を拭くことになるのです」 |