アボルファズル・ジャリリ監督の『かさぶた』と『7本のキャンドル』を観て、筆者がまず思いだしたのは、ベルギー映画『イゴールの約束』を監督したリュックとジャン=ピエールのダルデンヌ兄弟のことだった。ドキュメンタリーのフィールドから劇映画へと進出してきた彼らは、ドキュメンタリー風に見えながら、緻密な組み立てと現場の自発的な要素が均衡を保ち、人間の本性を鋭く見つめる独自のスタイルを作りあげた。
筆者が彼らにインタビューしたとき、ドキュメンタリーから劇映画に進出した理由について彼らは、「もっと積極的に現実に介入したくなったから」だと語っていた。ジャリリの映画もまたドキュメンタリー風に見えながら、そこには現実に積極的に介入しようとする強い意志がみなぎり、その意志が彼のスタイルを発展させている。
『かさぶた』は実際に少年院に収容されている少年たちが起用されているということもあり、非常にドキュメンタリーに近いものに見える。しかしドラマの流れには監督の意志がはっきり現われている。少年たちは少しでも束縛から解き放たれる時間をみつけると、凄まじいばかりのエネルギーを発散し、豊かな表情を見せる。しかしそんな生命力が規律を揺さぶるとき、看守は彼らに苛酷な罰や訓練を課す。
彼らが輝いていればいるほどに罰は残酷なものとなり、そんな光景が交互に繰り返されていくことによって、少年たちの生気は確実に失われていく。
主人公ハメッドの心のなかにも、あるイメージの繰り返しがある。読み書きの授業で一方的に価値観を植え付けられていくとき、彼は外の世界を全力で走る自分の姿を思い描く。仲良しのラルクがかさぶた≠フために隔離されたときも、彼は友だちがもう戻らないことを意味する私物の分配に背を向け、走る自分に思いを馳せる。そして今度はラミンと親しくなったと思うと、室長の告げ口によってまたも友を奪い去られ、彼の心は傷つけられていく。
この走る姿というのは、もちろん自由を意味しているのだろう。しかし筆者には別の意味もあるように思う。ハメッドは外の世界で、走って逃げなければならないような体験を何度もしてきたはずだ。ジャリリの映画では、少年院に限らず、世界そのものが牢獄のように見える。そういう意味では、ハメッドは少年院のなかも外の世界と何ら変わらないことを確認し、どこに自由があるのかという素朴な疑問を抱いているのではないだろうか。
映画の最後に彼は、裁判官に尋問され、「ぼくはいつ自由に?」とつぶやくが、その言葉には深い意味が込められているに違いない。
『7本のキャンドル』は、『かさぶた』と比べてみると、ジャリリのスタイルが大きな発展をとげているのがよくわかる。テヘランの工場でまかないの仕事をする少年シュアンは、妹が全身が麻痺してしまう奇病にかかったことから、彼女を救うために奔走する。
この作品でまず何よりも印象的なのは登場人物たちの手の動作をとらえた映像だ。彼らの手は、おたまでスープを注ぎ、包丁で肉をさばき、レジをたたき、打楽器を打ち鳴らし、ピアノを弾き、診断書を書き、卵を受け渡し、袋をさしだして金を集め、相手に気持ちと温もりを伝えようとする。手の動作は、彼らがどのように日々の生活を営み、世界とどのように繋がっているのかを語る。そしてさらに、
様々な感情を滲ませる顔の表情が、この手の動作と結びつき、双方のイメージを際立たせていく。
これは筆者の勝手な想像だが、ジャリリがこの映画で手と顔にこだわるのは、イスラムの女性たちが日常で肌をさらす部分がほとんど手と顔に限られることとも無縁ではないだろう。男女を対等に見つめ、台詞や演技といったものを極力排除しながら人物たちの存在を掘り下げようとすれば、自ずと手の動作と顔の表情にすべてが凝縮されていくということだ。そういう意味では、
シュアンに想いを寄せるマスメの手が動かなくなり、それをシュアンが癒すというのも実に象徴的だといえる。
そんな独自の眼差しによって描きだされる世界のなかで、シュアンの存在は際立っている。なぜなら他の人物たちの顔や手は、あらゆる現実を定めのように受け入れたところから日々の営みを黙々と繰り返すのに対して、彼は神だけでなく自分を信じ、常に自分の周囲にある枠を一歩踏み出し、世界と向き合っていこうとするからだ。
それは、鳩小屋の鍵を自分で探そうとしない男や逃げだ子牛を「おいで、おいで」と呼ぶだけのマスメに行動を促す彼の姿勢にもよく現われている。そしてそんな彼の意志が、最後に心を揺さぶるような奇跡を導くことになるのである。
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