[ストーリー] ニューヨークから単身イギリスにやってきた孤独な少女デイジーの心は荒みきっていた。生まれたときに母親を亡くし、愛を知らずに育った彼女は、見知らぬ3人の従兄弟とひと夏を過ごすため、憂鬱な気分でこの異国の地を踏んだのだ。しかし大都会の喧騒とはかけ離れ、美しい自然や動物に囲まれたカントリーハウスでの生活は、少しずつデイジーの頑なな心を溶かしていく。
そんなある日、首都ロンドンが反体制テログループに襲撃され、何万人もの市民の命が一瞬にして奪われる核爆発が発生。第三次世界大戦勃発に伴う戒厳令がしかれるなか、デイジーは従兄弟の長兄エディと恋に落ちるが、突如現れた軍に拘束されたふたりは離ればなれになってしまう。残されたエディの幼い妹パイパーを守りながら、移住先を脱走するデイジー。彼女はエディとの再会の約束を果たすことができるのか。[プレスより]
ケヴィン・マクドナルド監督(『ラストキング・オブ・スコットランド』『消されたヘッドライン』)が、メグ・ローゾフの同名小説を映画化した『わたしは生きていける』は、青春映画であって、戦争映画ではない。
確かに戦争は起こるが、描き出されるのはあくまでヒロインのデイジーや彼女の従兄弟たちの目に映る戦争であって、リアリズムのそれとは違う。ロンドン、あるいはイギリス、アメリカの状況も定かではないし、善と悪、敵と味方も必ずしも明確ではない。デイジーの意識には、戦争以前からある種の洗脳が作用している。核爆発によって降り注ぐ灰も幻想的に見える。
そんな混沌とした状況であるからこそ、デイジーが心から信じられる人間は限られ、青春映画としての枠組みを作り上げていくことになる。
さらに、ジョン・ホプキンスのサウンドトラックの効果も大きい。デイジーがイギリスの地方で見出す豊かな自然を意識した繊細で透明感のあるサウンドスケープが基調となり、主人公たちを包み込んでいく。
そうした視点や要素はこの映画の大きな魅力になっているが、ストーリーは筆者には物足りない。少女のサバイバルの物語であれば、イニシエーション(通過儀礼)が不可欠になるし、この映画の場合には条件が十分に整っているにもかかわらず、それがはっきりと描き出されていない。
たとえば、ベン・ザイトリン監督の『ハッシュパピー バスタブ島の少女』と比較してみると、イニシエーションをめぐるヴィジョンの違いが明確になる。 |