暗闇から手をのばせ
Extend Hands from Darkness  Kurayami kara te wo nobase
(2013) on IMDb


2013年/日本/カラー/68分
line
(初出:Into the Wild 2.0 | 大場正明ブログ)

 

不可視のものが自ら光を浴び、
外部に踏み出すためのイニシエーション

 

 戸田幸宏監督の長編劇映画デビュー作『暗闇から手をのばせ』のヒロインは、障害者専門の派遣型風俗店“ハニーリップ”で働くことになった沙織だ。これまでの風俗とは勝手が違う世界に飛び込んだ彼女は、出勤初日から手探りを余儀なくされる。

 最初の客、彫り物を入れた進行性筋ジストロフィー患者の水谷は、平均寿命が30歳なのでいつまで生きられるのかわからないと語る。二番目の常連客、先天性多発性関節拘縮症の中嶋は、障害をネタにした巧みな話術で本番を求めてくる。

 そして、その日の最後の客は、バイク事故で脊髄を損傷して不能になった若者、健司。だが、沙織を呼んだのは本人ではなく、彼の母親だった。母親は若い女性から刺激を受ければ息子の生殖機能が回復すると思い込み、勝手に段取りをつけていた。当然、健司は沙織を拒む。

 “ハニーリップ”の店長、津田は、全国には348万人の在宅身体障害者がいて、目の前に広がるこの町にも1万人が息を潜めて暮らしていると語る。この映画は、「性」を通してそんな不可視の存在を可視化するだけでも意味を持つ。しかし、ストーリーを追っていくうちに、それだけの映画ではないことがわかってくるはずだ。

 結論からいえば、これは、イニシエーション(=通過儀礼)なき時代のイニシエーションを描く映画といえる。そこで、もう明らかなことかもしれないが、ふたつの引用によって現代におけるイニシエーションの位置というものを確認しておきたい。

制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。(中略)言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった」(河合隼雄総編集『心理療法とイニシエーション』)

子どもが大人になるということ、そして一個の人格が理想的な形態に向上・成長し、変身・変容していくことについて、戦後社会は完全にモデルと方法を喪失し、"イニシエーションなき社会"になってしまったのだ」(鎌田東二『呪殺・魔境論』)

 それらを踏まえて筆者が注目したいのは、沙織とストーカーをめぐるエピソードだ。沙織は以前からつきまとっていたストーカーの策略にはまり、ラブホテルの浴室に監禁されてしまう。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   戸田幸宏
撮影 はやしまこと
編集 坂本久美子
 
◆キャスト◆
 
沙織   小泉麻耶
津田 津田寛治
健司 森山晶之
水谷 管勇毅
裕美子 松浦佐知子
中嶋 ホーキング青山
小西 モロ師岡
-
(配給:SPOTTED PRODUCTIONS)
 
 

 それらを踏まえて筆者が注目したいのは、沙織とストーカーをめぐるエピソードだ。沙織は以前からつきまとっていたストーカーの策略にはまり、ラブホテルの浴室に監禁されてしまう。

 このエピソードはふたつの意味を持つ。ひとつは、沙織がストーカーから逃げるために、障害者専門の風俗に移ったと思われることだ。その結果として、ある意味で彼女もまた不可視の存在になっていたことになる。

 しかし、バスタブで窒息しかけていたところを津田に救われることによって彼女は変わる。水中で死の淵まで追い詰められ、そこから戻ってくるイメージは、まさにイニシエーションを象徴している。

 この映画で、初日の仕事を終えた沙織は、津田から、ゆっくり考えてからつづけるかどうか決めてくれればいいといわれる。そのとき彼女は、すぐにつづけると答える。しかし、そのときの言葉と、病院のベッドで意識を取り戻した彼女が、津田に仕事をつづけたいと伝えるのとでは、その意味や重みが違っている。

 自分が死をくぐり抜けたからこそ、いつ死ぬかわからない障害者と世界を共有することもできる。ただし、沙織が変わるだけであれば、イニシエーションを描く映画として強調するほどのこともないかもしれない。だが、沙織のイニシエーションは、終盤のドラマでもうひとつのイニシエーションにつながっていく。

 この作品では、映画が不可視のものを可視化することに意味があるだけではなく、不可視のものがイニシエーションを経て自ら光を浴び、外部に踏み出していくところにより大きな意味があるように思える。


(upload:2013/05/09)
 
 
《関連リンク》
『暗闇から手をのばせ』 公式サイト

 
 
 
amazon.co.jpへ
 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp