他にもドラマからは複雑な人間関係が浮かび上がる。クリスティーナの面倒をみてくれているはずだった姉エレーナは、卒中で倒れ、介護が必要な身になっている。ルイザは見つけ出した娘を連れて、田舎に暮らす父親に会いに行くが、父親とルイザの間には深い溝がある。さらに、エレーナの夫である義兄が、娘を虐待し、深く傷つけていたことにも気づく。一方、母親に救われたかに見えたクリスティーナは、麻薬の売人である恋人の軽率な行動が原因で、トラブルに巻き込まれていく。
そんなドラマからは、出発点とは異なるテーマが浮かび上がってくる。筆者がまず思い出したのは、クリスティアン・ムンジウ監督の『汚れなき祈り』(12)のことだ。実話に基づくこの映画は、修道院という特殊な世界だけを描いているだけではない。ふたりのヒロインは、修道院の外にある社会のなかで救いの手を差し伸べられてもおかしくはなかった。ところがその社会の基盤となる人と人の関係がずたずたに分断され、誰も彼女たちに関心を払わない。だから居場所のない彼女たちは、修道院のなかで追い詰められる。
同じことがこの映画にもいえる。ルイザとクリスティーナは、人間関係がずたずたに分断された社会のなかで、追い詰められる。政治学者ジョゼフ・ロスチャイルドの『現代東欧史』には、革命以後のルーマニアについて以下のような記述がある。
「権力の集中と特権の構造はチャウシェスクの没落ののちまでしぶとく生き延びた。強制、恐怖、疑惑、不信、離反、分断、超民族主義といった政治文化がルーマニアで克服されるまでには長い時間が必要である。結局のところこうした文化は、半世紀にもおよぶ共産主義支配によってさらに強化される前から、すでにルーマニアの伝統となっていたからである」
この映画から浮かび上がる社会は、そんな政治文化と無関係ではないだろう。 |