地上に追放されていたふたりの天使が、教会のイメチェン・キャンペーンを利用して自分たちの罪を清め、天上界に帰還しようと企む。彼らがその目的を果たせば、神の摂理が崩れ、世界が終わりを告げることになる。そこで彼らの企みを阻止しようと、キリストの末裔や預言者たちが立ち上がる。
アメリカではこの映画に対して、カトリック教徒が抗議のデモを繰り広げたという。まあ、それもわからないではない。この映画では、教会がポップなキリスト像を作り、極めてご都合主義的な免罪の日を設ける。キリストの末裔である女性は中絶クリニックに勤務している。十三人目の使途を自称する黒人が空から降ってきて、KRS-Oneのようにキリストは黒人だと語る。
しかし、監督のケヴィン・スミスが、実は教会に通うれっきとしたカトリック教徒であることを見逃すわけにはいかない。
スミスはドグマというものに対して非常に鋭敏な感性を持ち合わせている。前作の「チェイシング・エイミー」には、実はゲイで白人と親しく付き合いながら、公の場では自分のコミックを売るために過激で排他的な闘士を演じる黒人漫画家が登場する。これは黒人社会にはびこるドグマに対する痛烈な風刺になっている。
たとえば、90年代半ばにネイション・オブ・イスラムの黒人指導者ルイス・ファラカンの呼びかけで、ワシントンで黒人の大行進が盛大に行われたが、結果的には何も変わらなかった。黒人の価値観が多様化しているうえに、中道化が進む社会のなかでは、実質的に一枚岩の結束などありえないのだ。
スミスは「ヴィレッジ・ヴォイス」のある記事のなかで、こんな発言をしている。「カトリックの指導者が自分たちを抑圧されたマイノリティであるかのように喧伝することは、本物のマイノリティに対する冒涜だ」
この映画は、形骸化した教会のドグマを風刺しても、本質的な信仰を風刺しているわけではない。スミスは、歴史と伝統が希薄なサバービアで育ったコミックおたくで、
80年代以降、白人や黒人、キリスト教などの指導者層が繰り出すドグマに翻弄される社会を生きてきた。映画「ドグマ」はそんな彼ならではの現代的な釈義なのだ。
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