古代ローマ、ゴート族との戦いに勝利した武将タイタスと彼に長男を生贄にされたゴートの女王タモラ。皇位継承をめぐる内紛から、新皇帝の妃に迎えられたタモラは、復讐のための陰謀をめぐらし、ローマは血に染まっていく。
ミュージカル「ライオンキング」の演出家ジュリー・テイモアが、シェイクスピアの戯曲「タイタス・アンドロニカス」を映画化したこの作品は、ふたつの点で観客を圧倒する。
ひとつは、これでもかとばかりに繰り出される残酷な暴力描写である。タイタスの娘は、強姦されたうえに舌と手首を切られ、息子たちは斬首刑に処せられる。復讐に燃えるタイタスは、タモラの息子たちの命を奪い、その肉を使ったパイで母親をもてなす。
もうひとつは、大胆で斬新な造形である。
この映画には、バイクや現代のファションなどが登場し、時代を混乱させる。そして古代ローマは、ムッソリーニが建てた庁舎を象徴的な背景とすることで、ムッソリーニの時代のイタリアにも姿を変えるのだ。
暴力は時代を越える。しかしそれは、現代の暴力ではない。暴力が時代を越えても、現代の暴力とのあいだには断層がある。この映画は、現代のどこにでもありそうなキッチンからドラマが始まる。そのキッチンでは、ひとりの少年が、テーブルにオモチャの兵隊や食品を並べて遊んでいる。
ところが彼は突然、それらをめちゃくちゃに壊しはじめる。そして次の瞬間、少年は甲冑の武将に抱きかかえられ、古代ローマへとワープし、悲劇の目撃者となる。
この少年のワープを、現代とタイタスの時代の暴力を結びつける表現と見る向きもあるだろう。しかし、映像はふたつの暴力のギャップを物語っている。
高度消費社会を生きるわれわれは、本質的な欲望に突き動かされるのではなく、類型化され象徴化されたイメージを消費しているに過ぎない。
暴力は、そのイメージがザッピングのように瞬時に切り替わるとき、突発的に沸き起こるようなものだ。
あるいは、こういう言い方もできる。あらゆるものを均質化する消費社会では、シェイクスピアの世界のような物語は失われ、物語のない空虚な世界が、現代的な暴力を生みだす。そういう意味で、タイタスのドラマは、いかに残酷ではあっても、同時にある意味で健全にも見える。
少年は現代と同じ暴力の目撃者となるためではなく、本質的な欲望から生まれる暴力、あるいは物語の洗礼を受けるために、古代ローマへとワープするのである。
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