熊切和嘉監督の『アンテナ』もまた、現代における痛みを強く意識し、それを掘り下げていく作品である。主人公である祐一郎を語り手とする原作小説には、混沌とした精神世界が大胆に描きだされる部分もあるが、この映画は、それを強引に視覚化し、物語をなぞるのではなく、独自の映像世界を作り上げている。特に素晴らしいのが、妄想をめぐる表現だ。
この映画では、真利江の失踪という拭い去りがたい過去の出来事から、ふたつの妄想が膨らんでいく。祐一郎は、大学で哲学を専攻し、自分のなかにある痛みの意味を明確にし、それを乗り越えることを望んでいる。そんな彼は、女王様であるナオミとの主従関係という妄想を通して、痛みの源を探りだそうとする。それは、閉ざされていた回路を開き、覚醒に至るための妄想といってよいだろう。
一方、母親と祐弥の共犯関係が生みだすもうひとつの妄想には出口がない。妄想の鍵を握る真利江が、負のエネルギーを放ちだせば、彼らはただ現実を失い、閉じた世界を生きるだけではすまなくなる。
ふたつの妄想は、ドラマのなかで激しくせめぎあい、やがて共鳴していくことになるが、見逃せないのは、鏡や扉がその境界になっていることだ。祐一郎の実家の建物が迷路を思わせるのは、決して増築を重ねたせいだけではない。祐一郎から見れば、扉の向こうには、自殺した叔父の記憶があり、鏡の向こうには、真利江がまだ存在していた時間がある。しかし、心と身体が不安定な状態にある彼には、なかなか過去を正視することができない。そんな境界は、祐弥が真利江になるとき、大きく変化することになる。
祐一郎と真利江になった祐弥が実家の玄関をくぐったとき、カメラは、祐一郎と鏡のなかにある真利江をとらえる。兄弟は鏡という境界に隔てられ、そこには異なるふたつの空間がある。そして、母親が当然のことのように真利江を受け入れるとき、鏡の向こうにあった妄想の世界は家全体を侵蝕しだし、祐一郎を追い詰める。
ナオミとの主従関係によって、おぼろげながらも自分が見えてきた祐一郎は、母親と祐弥の妄想を見守る決意をしたが、家全体を侵食する妄想を目の当たりにして激しく揺らぐ。それは祐一郎にしてみれば、死の世界ともいえる。だから彼は、主従関係によって開かれた回路から、生の欲望をほとばしらせ、自分に踏みとどまる。
ふたつの妄想は、実家のなかで激しくせめぎあう。母親は玄関に鍵をかけ、外部の人間を締めだし、妄想を揺るぎないものにしようとする。真利江が存在する世界では、痛みの源である過去すら意味を失っていく。これに対して祐一郎は、過去の真相に執拗にこだわりつづける相馬を引き入れようとする。しかし、その相馬もまた失踪した妻の真実を恐れていることを知るとき、自分で決着をつけなければならなくなる。
祐一郎は、鏡の境界を越え、真利江を連れだし、非常階段に通じる扉をくぐる。池のほとりで彼が真利江の首に手をかけるとき、その場面は水面に映しだされる。彼は、水面の向こうに消えた真利江の後を追おうとするが、彼を連れ戻すのは、同じ扉をくぐりぬけてきたであろう母親だ。彼らは、現実のなかで喪失の痛みを初めて共有することで、失われた絆を取り戻すのだ。 |