アンテナ
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(2004) on IMDb


2003年/日本/カラー/117分/ヴィスタ/モノラル
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(初出:『アンテナ』劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

痛みをめぐってせめぎあうふたつの妄想

 

 デイヴィド・B・モリスの『痛みの文化史』の序章は、こんな文章で始まる。「痛みというものは、火や氷と同じくらい根源的である。痛みは、恋愛がそうであるように、人間の最も基本的な体験に属しており、私たちのありのままの姿をあきらかにする

 しかし現代では、痛みの解釈はほとんど医学に委ねられている。つまり、痛みは否定的にとらえられ、その意味を失いつつある。そこで著者は、本書を通して痛みの復権を試みる。

 映画の世界でも、そうした現代の状況を視野に入れ、痛みの意味を探ろうとする映画が、目立っているように感じる。昨年公開された映画を振り返ってみても、何本かの作品がすぐに思い浮かんでくる。

 マリナ・ドゥ・ヴァン監督の『イン・マイ・スキン』のヒロインは、恋人と暮らし、広告関係の仕事で昇進もし、順調な人生を歩んでいる。だが、足の怪我をきっかけに、自分の肉体に違和感を覚え、それと同時に肉体に激しく執着し、自傷を繰り返すようになる。クライアントを接待するディナーでは、片腕が意思とは無関係に動いたり、手首が切断される幻覚に襲われ、テーブルの下でナイフを使って自分の肉を切り裂き、抉る。どこまでもエスカレートする自傷行為は、自己確認の儀式のようにも見えてくる。

 スティーブン・シャインバーグ監督の『セクレタリー』のヒロインは、アル中の父親と異常に過保護な母親との生活のなかで、自傷に走るようになる。緊張に耐えられなくなると、裁縫道具や包丁、火にかけたヤカンなどで自分の身体を傷つけ、平静を保つのだ。だが、自傷癖が露見し、精神病院に送られる。

 退院して、秘書として雇われた彼女は、ふたりの男に出会う。ひとりは彼女の恋人になる友人だ。彼女は、同じように入院を経験し、社会に順応している彼を心の支えにしようとする。しかし、彼女の雇い主である弁護士が、思いも寄らない刺激をもたらす。彼はサディズムの性向を隠し持っていた。これまで自分を否定することを強要されてきた彼女は、ご主人様と奴隷の関係を通して自分に目覚め、解放されていくことになる。

 作品のタイプはまったく違うが、『フリーダ』のジュリー・テイモア監督も、明らかに痛みを強く意識している。彼女の前作『タイタス』では、現代を生きる少年が時空を越え、想像を絶する残酷な復讐劇に発展するような痛みの目撃者となる。そして『フリーダ』でも、18歳で人生を変える大事故に遭ったメキシコの女流画家フリーダの心と肉体の痛みが、彼女の自画像に結晶化していく。テイモアはそんなドラマを通して、失われた根源的な痛みを呼び覚まそうとするのだ。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   熊切和嘉
原作 田口ランディ
脚本 宇治田隆史
撮影 柴主高秀
編集 普嶋信一
音楽 赤犬、松本章
 
◆キャスト◆
 
萩原祐一郎   加瀬亮
ナオミ 小林明実
萩原祐弥 木崎大輔
相馬俊平 宇崎竜童
萩原房江 浅丘めぐみ
萩原裕作 大森博
萩原シゲノブ 小市慢太郎
萩原真利江 甲野優美
風水師・東堂 入川保則
医師・小倉 黒沼弘巳
藤村美樹 占部房子
袴田 榎戸耕史
堕天使従業員 寺島進
警官 光岡湧太郎
-
(配給:オフィス・シロウズ)
 
 
 

 熊切和嘉監督の『アンテナ』もまた、現代における痛みを強く意識し、それを掘り下げていく作品である。主人公である祐一郎を語り手とする原作小説には、混沌とした精神世界が大胆に描きだされる部分もあるが、この映画は、それを強引に視覚化し、物語をなぞるのではなく、独自の映像世界を作り上げている。特に素晴らしいのが、妄想をめぐる表現だ。

 この映画では、真利江の失踪という拭い去りがたい過去の出来事から、ふたつの妄想が膨らんでいく。祐一郎は、大学で哲学を専攻し、自分のなかにある痛みの意味を明確にし、それを乗り越えることを望んでいる。そんな彼は、女王様であるナオミとの主従関係という妄想を通して、痛みの源を探りだそうとする。それは、閉ざされていた回路を開き、覚醒に至るための妄想といってよいだろう。

 一方、母親と祐弥の共犯関係が生みだすもうひとつの妄想には出口がない。妄想の鍵を握る真利江が、負のエネルギーを放ちだせば、彼らはただ現実を失い、閉じた世界を生きるだけではすまなくなる。

 ふたつの妄想は、ドラマのなかで激しくせめぎあい、やがて共鳴していくことになるが、見逃せないのは、鏡や扉がその境界になっていることだ。祐一郎の実家の建物が迷路を思わせるのは、決して増築を重ねたせいだけではない。祐一郎から見れば、扉の向こうには、自殺した叔父の記憶があり、鏡の向こうには、真利江がまだ存在していた時間がある。しかし、心と身体が不安定な状態にある彼には、なかなか過去を正視することができない。そんな境界は、祐弥が真利江になるとき、大きく変化することになる。

 祐一郎と真利江になった祐弥が実家の玄関をくぐったとき、カメラは、祐一郎と鏡のなかにある真利江をとらえる。兄弟は鏡という境界に隔てられ、そこには異なるふたつの空間がある。そして、母親が当然のことのように真利江を受け入れるとき、鏡の向こうにあった妄想の世界は家全体を侵蝕しだし、祐一郎を追い詰める。

 ナオミとの主従関係によって、おぼろげながらも自分が見えてきた祐一郎は、母親と祐弥の妄想を見守る決意をしたが、家全体を侵食する妄想を目の当たりにして激しく揺らぐ。それは祐一郎にしてみれば、死の世界ともいえる。だから彼は、主従関係によって開かれた回路から、生の欲望をほとばしらせ、自分に踏みとどまる。

 ふたつの妄想は、実家のなかで激しくせめぎあう。母親は玄関に鍵をかけ、外部の人間を締めだし、妄想を揺るぎないものにしようとする。真利江が存在する世界では、痛みの源である過去すら意味を失っていく。これに対して祐一郎は、過去の真相に執拗にこだわりつづける相馬を引き入れようとする。しかし、その相馬もまた失踪した妻の真実を恐れていることを知るとき、自分で決着をつけなければならなくなる。

 祐一郎は、鏡の境界を越え、真利江を連れだし、非常階段に通じる扉をくぐる。池のほとりで彼が真利江の首に手をかけるとき、その場面は水面に映しだされる。彼は、水面の向こうに消えた真利江の後を追おうとするが、彼を連れ戻すのは、同じ扉をくぐりぬけてきたであろう母親だ。彼らは、現実のなかで喪失の痛みを初めて共有することで、失われた絆を取り戻すのだ。

《引用文献》
『痛みの文化史』デイヴィド・B・モリス●
渡邉勉・鈴木政彦訳(紀伊国屋書店、1998年)

(upload:2010/05/30)
 
 
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