坪田義史監督の『美代子阿佐ヶ谷気分』では、70年代に注目を集めた漫画家・安部愼一の青春期とその後が描き出されるが、一般的な伝記映画とは人物に対するアプローチがまったく違う。
映画の冒頭ではまず漫画が浮かび上がり、その画が一コマずつ実写に変わり、恋人が不在の彼の部屋で無為な時間を過ごす女の独り言がドラマになっていく。そして場面が変わり、漫画雑誌を見つめる男のナレーションが入る。「これは漫画家・安部愼一が1971年に「月刊漫画ガロ」に発表した短編「美代子阿佐ヶ谷気分」である。この私生活漫画は後に彼の代表作となった」
この映画は、安部愼一の十数本の短編を素材にして世界を構築し、この漫画家の実像に迫っていく。ナレーションが語る安部の略歴を踏まえるなら、それは確かに不可能なことではない。恋人の美代子とともに福岡から上京し、阿佐ヶ谷で同棲生活を始めた彼は、美代子をモデルに漫画を描きつづけたからだ。しかしドラマのなかで安部が、自身の体験を抽象化していると語るように、体験と漫画は同じではない。映画のエンディングでも、この安部の人生が、作品をもとにしたフィクションであることが明示されている。
だが、坪田監督の独自のアプローチはそれだけではない。この映画では、様々なレベルで現実と虚構の境界を曖昧にしていこうとする意図が見え隠れする。坪田監督は、安部の人生という虚構を生み出す。映画のなかの安部は、インスピレーションをもたらすような体験を求め、現実から作品を生み出す。その正反対のベクトルは、美代子の存在にも影響を及ぼす。映画の冒頭に登場する美代子は、作品のなかの彼女、安部のなかの彼女だが、その後は実在の彼女と虚構の彼女の境界が曖昧になっていく。
それから、松田という登場人物の存在も見逃せない。彼は、安部を担当する「ガロ」の編集者で、ナレーションの主でもあるが、単なる狂言回しではない。その眼差しは坪田監督と近いところにある。この映画はすべてが松田の回想と想像という解釈も成り立つように作られている。
さらに、構成だけではなく、映像表現や音楽にも独自のアプローチがある。坪田監督は、必ずしも70年代の世界をリアルに再現することを目指しているわけではない。これは特に屋内のドラマにいえることだが、照明によってさり気なく原色が強調されている。音楽も、時代を象徴するような曲ではなく、奇妙なユーモアを漂わせたり、不穏な空気を醸し出したりするような弦楽器、管楽器、ピアノなどによるアンサンブルが多用されている。
そんな映像と音楽は、現実とは異質な空間を切り開く。それは夢を意識した表現だ。安部と友人たちはシュールレアリスムに傾倒している。そして美代子はドラマのなかで、「みんな夢の中」を歌う。その歌詞はこの映画の世界を包み込んでいくようでもある。
構成、映像、音楽に渡るこの多様なアプローチは、ひとつ間違えば、統一性を失うことに繋がり、ドラマを散漫なものにしかねない。しかし、この映画ではすべてが一点に集約されていく。その一点とは痛み=Aデイヴィド・B・モリスが『痛みの文化史』のなかで掘り下げているような痛みだ。その序章は以下のような記述で始まる。 |