チャーミング・ガール
This Charming Girl


2005年/韓国/カラー/98分/ヴィスタ/ドルビーSRD
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(初出:『チャーミング・ガール』プレス&劇場用パンフレット原稿、加筆)

 

 

痛みを通して自己に目覚めていくヒロイン

 

 『チャーミング・ガール』は、チョンヘという女性の内面の変化を、作り物のストーリーではなく、ディテールにこだわる映像によって繊細かつリアルに描き出した秀作である。

 チョンヘは毎日、規則的な生活を送っているが、それは彼女が、几帳面な性格の持ち主だからではない。チョンヘには友だちと呼べる人もなく、同僚とも距離を置いているが、それは彼女が、人付き合いよりもひとりを好んでいるからではない。

 ではなぜ彼女はそういう生活を送っているのか。そのヒントは、映画の導入部にある。彼女は、ある本を植木鉢の下敷きにしている。それは、かつて彼女がそうすることで、過去を封印しようとしたことを意味する。彼女は、過去を思い出さないようにするために、単調な生活を繰り返している。記憶というものは、何らかの変化をきっかけとして甦ってくるからだ。彼女は、テレビをつけたまま眠る。そうすれば、寝付く前や目覚めたときに、ふと考え事をしてしまうのを避けられるからだ。極端な言い方をすれば、彼女は過去も記憶もないロボットなのだ。

 しかし、いままさにそんな生活にささやかな変化が訪れようとしている。彼女が、植木鉢の下敷きにしたのと同じ本を取り寄せるのは、単調な生活のなかで、過去を封印しよとした理由すらぼやけたものになっているからだ。だが、その本だけでは、変化は、小さな波紋で終わっていたかもしれない。

 より重要なのは、彼女が猫を拾ってしまうことだ。彼女はこれまで自分の生活を完全にコントロールしてきた。しかし、子猫は決して彼女の思う通りにはならない。ソファの下に隠れてしまうこともあれば、餌にまったく口をつけないこともある。彼女は、自分ではないもののために、あれこれ考える。そしてそこから、他者と触れ合う感覚が甦ってくる。 主人公が、これまで目を背けてきた過去と向き合う物語は、決して珍しくはない。だが、そんな主人公の内面を、ここまで鋭く、緻密に掘り下げた作品は珍しい。

 たとえば、この映画では、感覚の表現が際立っている。生活の変化によって、チョンヘのなかには、記憶だけではなく感覚が甦ってくる。母親が足の爪を切ってくれたときに、彼女が感じた光の眩しさや深爪の痛み。彼女は、単調な生活のなかで、感覚を失っていた。その感覚を取り戻すことは、生きていることの実感に繋がる。だから、彼女はテレビを流しっぱなしにしなくなる。しかし、一方では、靴屋の場面が物語るように、他者との距離にも敏感にならざるをえなくなる。


◆スタッフ◆

監督/脚本   イ・ユンギ
Lee Yoon-ki
原作 ウ・エリョン
製作総指揮 イ・スンジェ
Lee Seung-jae
製作 ユン・イルジュン
Yoon Il-jung
撮影 チェ・ジンウン
Choi Jin-woong
編集 ハン・ソウォン、キム・ヒョンジュ
Ham Seong-weon, Kim Hyeong
音楽 イ・ヨンホ
Lee Yeong-ho

◆キャスト◆

チョンヘ   キム・ジス
Kim Ji-su
作家の男 ファン・ジョンミン
Hwang Jeong-min
-
(配給:ユナイテッド・エンタテインメント)
 


 そして、彼女が取り戻す感覚のなかでも、特に重要なのが、痛みの感覚だ。痛みの感覚は、この映画のなかで、見えない流れを形作っていく。出発点は、記憶のなかにある。まず、深爪の痛みがある。次に、夫と新婚旅行に行ったときに、初体験のことを尋ねられ、痛かっただけだと答えた記憶が甦る。しかし、その痛みはまだ、実感としては甦っていない。彼女は、現在のドラマのなかで、食事の約束をすっぽかされたり、自殺を考えるほどの苦しみを背負った若者と過ごすことで、実感としての痛みに近づいていく。

 そんな彼女が、自分のなかにある痛みを完全に取り戻すのは、公園でつまずき、バックから飛び出したナイフで自分を傷つけてからだ。彼女は、傷の手当てをしながら、感情をほとばしらせるように泣く。おそらく彼女は、かつて最も辛い体験をしたときに、泣くことができなかったはずだ。彼女は、母親に告白できず、痛みと哀しみを押さえ込んできたからだ。

 デイヴィド・B・モリスの著書『痛みの文化史』の冒頭には、以下のような記述がある。「痛みは、恋愛がそうであるように、人間の最も基本的な体験に属しており、私たちのありのままの姿をあきらかにする」。チョンヘは、痛みを取り戻すことによって、ロボットではない、本来の自分に目覚める。それだけではなく、すでに痛みを乗り越えてもいる。なぜなら、過去に囚われるのではなく、すぐに捨てられた猫のことを考えられるからだ。

 映画のラストで、作家志望の青年と向き合うチョンヘは何を思うのか。おそらく彼女は、彼のことを信じ、痛みも含めた自分を曝け出せるのかと、自分に問うているのだ。


《参照/引用文献》
『痛みの文化史』デイヴィド・B・モリス●
渡辺勉・鈴木牧彦訳(紀伊國屋書店、1998年)

(upload:2007/11/11)
 
 
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