シェイクスピアの「タイタス・アンドロニカス」を映画化したジュリー・テイモアの長編デビュー作『タイタス』(99)は、古代ローマを舞台にした物語だが、映画は現代のエピソードから始まる。家のなかで、オモチャの兵隊で遊んでいた少年が、突然それを乱暴に壊しだす。次の瞬間、少年は甲冑の武将に抱きかかえられ、古代ローマへとワープする。そこでは、あまりにも残酷な復讐劇が繰り広げられる。
その暴力描写には圧倒される。ローマの武将タイタスの娘は、ゴート族の女王タモラの陰謀によって、強姦され、舌と手首を切られる。タイタスは、女王の息子たちの命を奪い、その肉を使ったパイで母親をもてなす。現代の少年の乱暴な振る舞いなど一瞬にしてかすんでしまう。
しかし、この残忍な復讐の背後には、深い心の痛みがある。これに対して、少年のなかには突発的な衝動しかない。歴史や物語が失われた現代を生きる少年は、ワープすることによって物語の洗礼を受ける。テイモアは、ふたつの暴力を対比することで、人間の在り方や根源的な痛みを見直そうとするのだ。
メキシコを代表する画家フリーダ・カーロの生涯は、そんなテイモアに相応しい題材だといえる。フリーダは、18歳のときに人生を変える大事故に遭遇する。乗っていたバスが路面電車と衝突し、彼女は腰から鉄棒が突き刺さり、肋骨や背骨、骨盤などが砕ける重傷を負いながら、九死に一生を得る。
そして、この肉体の痛みが彼女を絵画へと駆り立て、心の痛みと肉体の痛みが奔放なイマジネーションのなかで共鳴し、おびただしい数の自画像へと結晶化していく。
そんな画家の軌跡は、単なるドラマではなく、鋭い洞察に基づく大胆な造形を持ち味とするテイモアの想像力を刺激したに違いない。『フリーダ』では、大事故に遭った少女を不世出の画家に変えていく痛みが、圧倒的な造形のなかに描きだされていく。
壁画家ディエゴ・リベラとの出会い、結婚、そして彼の裏切り。アメリカの空虚な物質文明や共産主義運動に対する弾圧。流産の悲劇や体調の悪化にともなって繰り返される手術。彼女の絵画は、彼女が追い詰められるほどその輝きを増す。そうした出来事のなかで、肉体の痛みと心の痛みがひとつになり、世界と自己に対する視野が広がり、絵画に取り込まれ、自画像が深化していくからだ。
テイモアはCGも駆使することによって、彼女を変える体験と絵画の世界を見事に結び付け、その痛みを鮮やかに浮き彫りにする。この映画では、テイモアならではの深い意味を持った痛みの表現が、フリーダの物語に揺るぎない強度をもたらしているのだ。 |