オゾンは、膨らむ幻想や生々しいセクシュアリティから歌やダンスまで、多様な表現を駆使してヒロインの内面を掘り下げていく。と同時に、ヒロインを演じる女優もまた、そんな設定やアプローチに呼応するように個性を発揮し、特別な輝きを放ち出すのだ。
そして、オゾンの新作『しあわせの雨傘』でも、ヒロインに予期せぬ出来事が起こる。夫の言いなりで、“飾り壷”と揶揄される主婦スザンヌが突然、雨傘工場の経営を任されることになる。この映画はユーモアや皮肉を散りばめたコメディだが、そこにはヒロインの内面の変化をとらえるオゾン独自の視点がしっかりと埋め込まれている。
その変化の鍵を握るのはババンとの関係だ。ヒロインのなかでは、主体性よりもババンとの思い出が大きな比重を占めている。スザンヌは、かつてパンクで立ち往生していた彼女に、階級の違いを越えて救いの手を差し伸べてくれたババンに期待し、頼っている。だから彼が代償を求めたとき、男女の関係のことかと早合点する。組合との交渉に臨むときにも、彼と出会ったときのドレスを身につける。映画の導入部で「今夜はダンスに連れてって」と口ずさんでいた彼女は、ババンとバダブンを訪れることでそれを叶える。
しかしスザンヌは、ババンの求愛を拒むことでそんな思い出の世界から抜け出す。彼女が口にする「古い愛人」という表現はなかなか洒落ている。誤解だと思ったババンはそれを打ち消そうとするが、その言葉が意味するものは「政治」だった。このやりとりは、ババンが代償を求めたときに、彼女が勘違いしたことに対する巧みな切り返しになっている。そんなふうに男女の関係と政治が入り組んでいくところにも、この映画の面白さがある。
さらに、水のイメージにも注目すべきだろう。スザンヌは、夫から外で子供を作っていたことを告白されたとき、自分の気持ちを「飾り壷から水があふれてくる」という言葉で表す。オゾンはこれまで海やプールなど水のイメージを多用し、人物の内面と結びつけてきたが、新作も例外ではない。
冒頭のジョギングの場面にも出てくる湖は、フラッシュバックでスザンヌとババンの出会いが描かれることで異なる意味を持つ。愛し合う男女の背景にはまさに湖があるからだ。この思い出のなかの湖は若さや性的な欲望を象徴している。しかし、ふたりが再び湖を訪れ、そこで決別するとき、水は彼女ひとりのものになる。ヒッチハイクでトラックに乗り込んだ彼女の溌剌とした表情は、水が違う方向に流れていくことを示唆している。
では、飾り壷からあふれる水の流れはどう変わるのか。スザンヌがジョギングのときに着ているジャージの色がそのヒントになるかもしれない。冒頭のジョギングの場面では、ジャージの色は赤だった。トリコロールに当てはめるなら、それは博愛を意味している。確かに彼女は、周囲の人々をできるだけ等しく愛するように心がけてきたといえる。しかし、ババンと決別し、夫と娘の反乱にあったことで、その限界を思い知らされる。特に、女同士の連帯が破綻したことは大きな痛手だった。
そこで彼女は、新たな目標を見出し、赤ではなく青のジャージを着て再び走り出す。それは自由を意味する。まず自分自身が家族や男女のしがらみから自由にならなければ、博愛を実践することもできない。だから彼女は離婚を決意し、ババンに対抗して立候補する。つまり、水は自立と政治に向かって流れていく。
先ほどこの映画では男女の関係と政治が入り組んでいくと書いたが、それが終盤でさらに生きてくる。スザンヌがババンの求愛を拒んだ時点では、彼女にとって古い愛人=政治こそが恋敵であり、ババンと政治は切り離せないものだった。ところが今度は逆に、スザンヌと政治が切り離せないものになる。但し、彼女にとって政治は古い愛人ではない。それは、飾り壷からあふれる水を受け止めてくれる「理想の恋人」といえるかもしれない。 |