そんなジェイコブとルーの立場を踏まえるなら、ハンクが金に対して慎重になるのも頷ける。彼らは目先の金を必要とし、その金のためなら少々の危険はおかしかねないが、もし実際に問題が起こったときに、いちばん大きな損失をこうむるのは、中流の生活を築き上げているハンクとサラであるからだ。
しかしながら、いざ計画が動きだしてみると、まるで人が変わったように金に執着し、殺人すら厭わなくなるのは、ハンクであり、サラなのだ。そんな中流の心理を鋭く掘り下げていくところに、この映画の怖さがある。
■■土地や過去へのこだわりと兄弟の確執■■
その心理は、ハンクとジェイコブの対照的な価値観を通して鮮明に描きだされる。ジェイコブはもしこの大金が自分のものになったら、亡くなった父親が失った農場を取り戻そうと考える。それはハンクにとって、ふたつの意味で許し難いことだといえる。ひとつは現実的な問題として、この小さなコミュニティのなかでジェイコブが農場を買い取るようなことをすれば、
金の出所に注目が集まってしまうからだ。もうひとつは、ジェイコブが父親や農場、故郷の土地に執着することに対して心理的に抵抗をおぼえる。それはまさに彼が典型的な中流であり、土地や過去に縛られることを嫌悪しているからだ。
それでは、ハンクとサラは大金で何を手に入れようとしているのか。原作にはこんな記述がある。彼らは「堅気の中流階級で、将来の悩みといえば、どうやって食べていくか、支払いをどうするか、教育費をいかに工面するかといったことではなく、もっと大きな家、もっとよい車、もっと便利な家電製品を買えるほど貯金するにはどうすればよいかということだった」
確かに彼らもいろいろなものを求めているのだろう。しかし本当に恐ろしいのは、農場を取り戻そうとするジェイコブや借金を返そうとするルーと違って、彼らにとって何を求めるかはそれほど重要ではないことだ。重要なことは是が非でも現在の生活から脱出することなのだ。なぜなら、大金を前にしたとき、彼らには中流が上っていく階段がすべて見えてしまうからだ。
いくら大きな家に移り、どんなによい車や便利な電化製品を買っても、中流は中流でしかないのだ。そうなると、これまで幸福であったはずの生活は、もはや悲惨以外のなにものでもない。そこで彼らは、具体的には未来に対するヴィジョンは何もないにもかかわらず、中流という牢獄から抜けだすために、たとえ人を何人殺そうとも金を手に入れなければならないという強迫観念にとらわれていくことになるのだ。
この映画の脚本は原作者であるスコット・スミス自身が手がけているが、彼はその脚色にあたって、兄弟の関係がいっそう際立つように改変を加えている。たとえば、原作では父親の墓参りに行った兄弟は、その途中でセスナ機を発見し、金に心を奪われて墓参りのことをすっかり忘れて戻ってきてしまう。ところが映画では、彼らはまず墓参りをすませる。そのときハンクは、墓に供えられた花から、
彼が知らないうちにジェイコブが来ていたことを知り、複雑な表情を浮かべる。そんなふうにして、父をめぐって兄弟のあいだに溝があることがさりげなく暗示されてから、ドラマがセスナ機の発見へと繋がっていくのだ。さらに原作では、物語の中盤を過ぎたあたりで、兄弟がハンクのあまりにも非道な所業をめぐって対立し、ハンクがあっさりとジェイコブを射殺してしまうが、映画では、
クライマックスにまったく違ったかたちで兄弟が決着をつけることになる。
この映画が現代的なカインとアベルを象徴しているというのは、単に兄弟のあいだでの殺害が描かれるからではない。土地に執着し、父親の農場を取り戻そうとするジェイコブはまさに農夫カインであり、中流として郊外の階段を上っていこうとするハンクは牧夫アベルなのだ。そして本来の物語であれば、そんなアベルに嫉妬したカインが弟を殺すところなのだが、それとは逆に、
自分が犯した罪の重みに疲れ果てたジェイコブを、あくまで金に執着し、自己の行いを正当化する以外に道を見出せないハンクが殺害するところに、現代的なカインとアベル、あるいは現代の心の闇を見ることができる。
■■「ダークマン」に通じるライミの視点■■
この「シンプル・プラン」は、もし何の予備知識もなく観たら、サム・ライミの映画とは思えないほどにストレートなスタイルで作られている。ここには、トリッキーなカメラワークやコミック的な映像、意外性に満ちたドラマの飛躍や逸脱はまったく見当たらない。しかしながらこの映画には、確かにライミならではの視点がある。彼の映画では、
『死霊のはらわた』のシリーズでも『ダークマン』でも『クイック&デッド』でも、登場人物たちは常にサバイバルを強いられ、サバイバルを通してそれぞれに奇妙な宙吊り状態に置かれる。なかでもこの『シンプル・プラン』を観ていて、筆者が思い出していたのは『ダークマン』のことだ。
といっても『ダークマン』そのものではなく、この映画の主人公ペイトンが最後に恋人に向かって口にする台詞である。彼はこのように語りかける。「わたしは誰でもあって、誰でもない。どこにもいて、どこにもいない」。もちろんそれは、彼が顔と手に大火傷を負い、人工皮膚を装着することによって誰にでも顔を変え、完全に社会に溶け込んでしまうことを意味している。
しかし、この言葉はまったく別の次元で、ハンクとサラに見事に当てはまる。
彼らが大金を前にして、中流が上っていく幸福の階段をすべて見てしまったとき、彼らはまさに誰でもあって、誰でもなく、どこにもいて、どこにもいない存在になる。家や車、電化製品が贅沢になっても、そこにいるのは彼らであると同時にすべての中流でもあるのだ。それは、金によって父親の農場や失われた過去を取り戻そうとするジェイコブの行為とは決定的に違っている。
そして、金をめぐるサバイバルを通して、ひとたびそんな宙吊り状態におちいってしまったハンクとサラは、どこにも帰るところがないと同時に、巨大な牢獄に閉じ込められていることにもなる。そんな牢獄を抜けだすために彼らは、肉親を殺してでも金を手に入れようとするが、最後には悲しい結末が待ち受けている。
この映画は、そんなふうにして中流の疎外と狂気を浮き彫りにするスリラーなのである。 |