では、クルーニーは、ふたつの題材をどのように結びつけているのか。レヴィットタウンの実話では、開放的に見えた郊外の住人が、黒人の一家が引っ越してきた途端に豹変し、排他的な感情をむき出しにする。平和に見えたロッジ家では、次第にどす黒い欲望が露になる。確かにどちらも郊外のダークサイドを炙り出すものではあるが、そんな共通点だけでは、実話とノワール・コメディが噛み合うはずもないだろう。
この映画には、ふたつの題材を結びつけるための緻密な構成が埋め込まれている。まず注目したいのは、レヴィットタウンの実話だ。この物語は、マイヤーズの一家が引っ越してきてから、住民の嫌がらせがピークを迎えるまでの一週間に時間が限定されている。しかも、一家がその間、家のなかで緊張に晒されながらどのように過ごしていたのかはほとんど描かれない。その部分については、クルーニーが参考にしたドキュメンタリー『Crisis in Levittown』の他に、妻のデイジー・マイヤーズが後にその体験を綴った回顧録を発表してもいるので、描けなかったのではなく、あえて想像に委ねているといえる。
一方、ロッジ家の物語も、単純にノワール・コメディとはいえない演出が施されている。この物語の本当の主人公は、息子のニッキーであるからだ。おそらく本来のコーエン兄弟の脚本はもっと滑稽さが際立っていたはずだが、この映画では家族に起こっていることが少年の悪夢にも見えるように演出されている。
たとえば、ベッドから引き出されて強盗と対面するとか、ふと目覚めて異様な空気を感じ、父親を呼ぶというように、眠りと恐怖や不安が結びつけられている。映画のラストでは、家で起こった恐ろしい出来事の目撃者が彼だけになり、しかも事件はまだ公になっていない。その時点では、彼の体験は限りなく悪夢に近い。
そこで、もうひとつ見逃せないのが、ニッキーとマイヤーズ家の息子アンディの関係だ。ニッキーは最初、野球をやりたくはないが、伯母にいわれてしぶしぶアンディを誘う。ふたりは次第に親しくなっていくが、筆者が特に印象的だったのは、マイヤーズ家の庭に隠れた彼らが、住民たちの嫌がらせを眺めながら、会話する場面だ。アンディが、父親から怖いという気持ちも何も見せるなと言われたと語ると、ニッキーは真剣な顔で頷く。このエピソードは、終盤のニッキーと父親の対話に繋がっているように思える。これまで父親に威圧されてきたニッキーは、勇気を振り絞ってケダモノが誰なのかをはっきりと口にする。それを聞いた父親はいきなりムキになり、サンドイッチをむしゃむしゃと食べ出すのだ。
ロッジ家とマイヤーズ家は、裏庭を接する位置関係にあるが、それが映画のラストを印象深いものにする。それぞれの家の表側には暴動や惨劇の痕跡が残っているが、裏庭は明るい芝生だけで何も変わっていないように見える。だが、ニッキーが裏庭に出る前にテレビで見ているのは、『Crisis in Levittown』の映像であり、いまの彼にはアンディの体験を想像することができる。ふたりの無言のキャッチボールは、ニッキーがアンディと不条理な悪夢を共有していることを物語っている。 |