サバービコン 仮面を被った街
Suburbicon


2017年/アメリカ/カラー/105分/スコープサイズ/ドルビー・デジタル
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(初出:『サバービコン 仮面を被った街』劇場用パンフレット)

 

 

ノワール・コメディと実話が暴く偽りの楽園

 

[ストーリー] 明るい街、サバービコンへようこそ!そこはアメリカン・ドリームの街。しかし、そこに住むロッジ家の生活は、自宅に侵入した強盗により一転する。足の不自由な妻ローズ(ジュリアン・ムーア)が亡くなり、幼い息子ニッキーが遺される。仕事一筋の一家の主ガードナー(マット・デイモン)と妻の姉マーガレット(ジュリアン・ムーア 二役)は、ニッキーを気づかいながらも前向きに日常を取り戻そうとするのだが・・・。時を同じくして、この白人だけのコミュニティに紛れ込んできた黒人一家の存在が、完璧なニュータウンのもうひとつの顔をあらわにする。街の人々と家族の正体にただ一人、気がつくニッキー。事件は、想像を超える結末へと急展開する。果たして、幼いニッキーの運命は?ロッジ家は幸福な暮らしを取り戻せるのか!?

[以下、本作のレビューです]

 アメリカでは第二次大戦後から50年代にかけて、芝生のある郊外の一戸建てが手の届くアメリカの夢になり、激しい勢いで郊外化が進んだ。人々の夢を現実に変えたのは、“郊外の父”と呼ばれたウィリアム・レヴィットだ。彼は、自動車のフォードにならって、住宅を大量生産する画期的なシステムを確立し、ニューヨーク州ロングアイランドやペンシルベニア州バックス郡にレヴィットタウンという巨大な住宅地を作り上げた。

 但し、誰もが夢を叶えられたわけではない。レヴィットは黒人には家を売らない方針を打ち出していた。彼は50年代初頭に、その理由を以下のように語っている。「私自身ユダヤ人だから、人種差別的な信念や気持ちはもっていない。だが……経験上、わかっているのだが、もし一軒の家をニグロの家族に売ったとすれば、うちの白人客の九〇%から九五%は、このコミュニティの家を見向きもしなくなるだろう」

 しかし、1957年夏、ペンシルベニア州のレヴィットタウンにマイヤーズという黒人一家が入居し、騒動になった。住人たちはマイヤーズ家の前に集まり、騒音を立て、歌を歌い、十字架を燃やすなどの行動を繰り返した。大規模な集会は一週間ほどで収まったものの、その後も脅迫電話などの嫌がらせがつづいたという。

 ジョージ・クルーニー監督の新作『サバービコン 仮面を被った街』は、この事件が出発点になっている。彼は、この実話とコーエン兄弟が初期に書いたまま眠っていた脚本「Suburbicon」を組み合わせ、ひとつの世界にまとめ上げた。

 その「Suburbicon」の物語は、いかにもコーエン兄弟らしいノワール・コメディである。彼らの世界には、ユダヤ文学におけるシュレミール(schlemiel)やシュリマゼル(schlemazel)に通じる人物が頻繁に登場してくる。それらは、なにをやっても裏目に出るドジな人物や災いばかりが降りかかるどうにもついてない人物を意味する。この映画でも、ガードナー・ロッジやマーガレット、そしてロッジ家に押し入る強盗たちが、やることなすこと裏目に出て、泥沼にはまっていく。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ジョージ・クルーニー
George Clooney
脚本 ジョエル&イーサン・コーエン
Joel & Ethan Coen,etc
撮影 ロバート・エルスウィット
Robert Elswit
編集 スティーヴン・ミリオン
Stephen Mirrione
音楽 アレクサンドル・デスプラ
Alexandre Desplat
 
◆キャスト◆
 
ガードナー   マット・デイモン
Matt Damon
ローズ/マーガレット ジュリアン・ムーア
Julianne Moore
バド・クーパー オスカー・アイザック
Oscar Isaac
ニッキー ノア・ジュプ
Noah Jupe
アンディ トニー・エスピノサ
Tony Espinosa
デイジー・マイヤーズ カリマー・ウェストブルック
Karimah Westbrook
ウィリアム・マイヤーズ リース・バーク
Leith Burke
-
(配給:東北新社)
 

 では、クルーニーは、ふたつの題材をどのように結びつけているのか。レヴィットタウンの実話では、開放的に見えた郊外の住人が、黒人の一家が引っ越してきた途端に豹変し、排他的な感情をむき出しにする。平和に見えたロッジ家では、次第にどす黒い欲望が露になる。確かにどちらも郊外のダークサイドを炙り出すものではあるが、そんな共通点だけでは、実話とノワール・コメディが噛み合うはずもないだろう。

 この映画には、ふたつの題材を結びつけるための緻密な構成が埋め込まれている。まず注目したいのは、レヴィットタウンの実話だ。この物語は、マイヤーズの一家が引っ越してきてから、住民の嫌がらせがピークを迎えるまでの一週間に時間が限定されている。しかも、一家がその間、家のなかで緊張に晒されながらどのように過ごしていたのかはほとんど描かれない。その部分については、クルーニーが参考にしたドキュメンタリー『Crisis in Levittown』の他に、妻のデイジー・マイヤーズが後にその体験を綴った回顧録を発表してもいるので、描けなかったのではなく、あえて想像に委ねているといえる。

 一方、ロッジ家の物語も、単純にノワール・コメディとはいえない演出が施されている。この物語の本当の主人公は、息子のニッキーであるからだ。おそらく本来のコーエン兄弟の脚本はもっと滑稽さが際立っていたはずだが、この映画では家族に起こっていることが少年の悪夢にも見えるように演出されている。

 たとえば、ベッドから引き出されて強盗と対面するとか、ふと目覚めて異様な空気を感じ、父親を呼ぶというように、眠りと恐怖や不安が結びつけられている。映画のラストでは、家で起こった恐ろしい出来事の目撃者が彼だけになり、しかも事件はまだ公になっていない。その時点では、彼の体験は限りなく悪夢に近い。

 そこで、もうひとつ見逃せないのが、ニッキーとマイヤーズ家の息子アンディの関係だ。ニッキーは最初、野球をやりたくはないが、伯母にいわれてしぶしぶアンディを誘う。ふたりは次第に親しくなっていくが、筆者が特に印象的だったのは、マイヤーズ家の庭に隠れた彼らが、住民たちの嫌がらせを眺めながら、会話する場面だ。アンディが、父親から怖いという気持ちも何も見せるなと言われたと語ると、ニッキーは真剣な顔で頷く。このエピソードは、終盤のニッキーと父親の対話に繋がっているように思える。これまで父親に威圧されてきたニッキーは、勇気を振り絞ってケダモノが誰なのかをはっきりと口にする。それを聞いた父親はいきなりムキになり、サンドイッチをむしゃむしゃと食べ出すのだ。

 ロッジ家とマイヤーズ家は、裏庭を接する位置関係にあるが、それが映画のラストを印象深いものにする。それぞれの家の表側には暴動や惨劇の痕跡が残っているが、裏庭は明るい芝生だけで何も変わっていないように見える。だが、ニッキーが裏庭に出る前にテレビで見ているのは、『Crisis in Levittown』の映像であり、いまの彼にはアンディの体験を想像することができる。ふたりの無言のキャッチボールは、ニッキーがアンディと不条理な悪夢を共有していることを物語っている。

《参照/引用文献》
『ザ・フィフティーズ 第一部』デイヴィッド・ハルバースタム●
金子宣子訳(新潮社、2002年)

(upload:2019/07/26)
 
 
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