コーエン兄弟の『シリアスマン』は、これまでの彼らの作品と違った印象を与えるかもしれない。それは、ユダヤ系の家族やコミュニティのドラマにこの兄弟のバックグラウンドが反映されているからだ。しかし、ユダヤの文化や慣習を理解していなければ楽しめないということはない。この映画は、ひとつのことを頭に入れておけば、たっぷり楽しむことができる。
たとえば、ユダヤ文学には、シュレミール(schlemiel)やシュリマゼル(schlemazel)というように表現される人物像が頻繁に登場する。それらは、なにをやっても裏目に出るドジな人物や災いばかりが降りかかるどうにもついてない人物を意味する。コーエン兄弟にとってこうした人物像は身近なものであるはずだ。
『シリアスマン』を観ていて筆者がすぐに思い出したのは、作家としても活躍するイーサン・コーエンが1998年に発表した短編集『エデンの門』のことだった。そこには、ボクサーや探偵、ギャングから平凡な家族まで様々な主人公が登場してくるが、彼らの人物像はだいたいシュレミールやシュリマゼルに当てはめることができる。
なかには『シリアスマン』にそっくりな設定の短編もある。たとえば、「少年時代」は、ミネアポリスのサバービア(郊外住宅地)で家族と暮らし、ヘブライ語学校に通う少年の視点で物語が綴られる。彼には姉がいて、彼女のことがこのように描写されている。
「思春期に入って以来、この六年後に家を出て大学へ入るまで、ぼくは姉の姿をほとんどみかけたことがなかった。姉はその時期を、風呂場で髪を洗って過ごしていた。ごくたまに食事や、電話をかけるために姿を現すことがあった、頭にタオルを巻いて」
それから家族に翻弄される父親の物語もある。デイビーとバートという8歳と5歳の息子たちとキャンプ旅行をする父親の姿を描いた「子供たち」だ。好き嫌いが激しく、わがままな息子たちに辟易した父親は、このように自分の人生を嘆く。
「朝食の準備には複数のなべとフライパンが必要だった、というのも、デイビーはオートミールしか食べないし、バートはゼリー・オムレツがないとかんしゃくを起こすからだった。卵が焼けるのを待ちながら父は、人生のどこをどう踏み誤ったせいで自分がいまの場所にたどり着いてしまったのかを解明しようとした。オムレツのフライパンと<スマッカーズ>の大きなピーチゼリーの瓶がなければ自然の中に入って行けないという生活に。このような苦々しく被害妄想的な時間に、彼は自分を見つめがちになった、残酷なほど無意味で手の込んだ行動実験をやらされるラットのように。結婚、育児、そして肉体的な性行為ですら、どこか上のほうで観察している冷静な臨床医に支配された、腹立たしい強制的な作業のように思えた」
この文章は、コーエン兄弟が『シリアスマン』の主人公ラリーをどんな視点で描いているのか理解するヒントになるだろう。ラリーは次々と不運に見舞われることを予め運命づけられた人物だ。コーエン兄弟はどこか上の方から彼を観察しているともいえる。だから、彼の立場になって一緒に考え込み、答えが出ることを期待してしまうと、可笑しさが失われてしまう。 |