「凶悪な事件が起きるときはいつも、犯人は邪悪で狂っているというレッテルが貼られます。この方が、ニュースを簡単に消化できますから。しかし、この捉え方は危険だと思います。社会は悲劇から何も学ぶことができないからです。よって、この悲劇をよく見るという方法を取りました。殺人者に好感を持たせる意図はなく、むしろ一人の人間がどのようにしてこんな罪を犯してしまったのかを深く理解するためです」
作り手は、”ニトラム”と呼ばれバカにされていた主人公が凶行に至るまでの行動を冷徹な眼差しで描き、そこにはこの人物に対する様々な解釈の余地が残されている。なかでも筆者が特に興味を覚えたのは、ニトラムが宝くじ会社の相続人ヘレンと出会ったことによる環境の大きな変化だ。
ニトラムとヘレンの親密な関係は悲劇的な結末を迎えるが、彼女はふたつのものをニトラムに遺す。ひとつは数十万ドルの遺産。花火や空気銃に執着していた彼は、それがなければ高価な銃を購入できなかったかもしれない。もうひとつは、ヘレンが飼っていたたくさんの犬たち。ニトラムはその犬たちの面倒をみることになる。というよりも、ヘレンと出会った直後から面倒をみていた。
本作において、ニトラムと犬たちとの関係はどうでもいいような細部に過ぎないだろう。だが、このような事件を起こす人物で、動物と関係を持っていた者がいただろうか。筆者がニトラムと犬たちとの関係に興味を覚えるのは、同時期に公開されるエリザベス・ロー監督のドキュメンタリー『ストレイ 犬が見た世界』の影響も少なくない。
『ストレイ 犬が見た世界』では、トルコのイスタンブールに暮らす野良犬たちとシリア難民の少年たちの関係が描かれる。ロー監督は、そのコンセプトを考える上で重要な役割を果たしたものとして、路上の犬をモデルに生活していた古代ギリシャの哲学者ディオゲネスに関する作品、ジョン・バージャーのエッセイ「なぜ動物を観るのか?」(『見るということ』所収)、ダナ・ハラウェイの著作に言及している。
バージャーの「なぜ動物を観るのか?」では、企業資本主義によって人間と自然を繋ぐ伝統が壊される以前、動物が人間と共に世界の中心に存在していた時代における動物と人間の関係が以下のように表現されている。
「動物は人間だけを特別扱いしているわけではない。けれど人間以外、動物の視線を親しみをもって受け入れる種はない。他の動物はその視線によって押し止められる。人間はその視線を返すことによって自分自身を認識する」
さらに、ハラウェイの『伴侶種宣言――犬と人の「重要な他者性」』では、犬と人間の関係への関心が以下のように綴られている。
「犬たちは[人間の]自己とは一切関係がない。それこそが犬の良さでもあるのだ。犬は投影ではない。何らかの意図の実現でもないし、何かの最終目的でもない。犬は犬である。つまり、人類とともに特定の環境のなかで生き、構成的かつ歴史的で、変幻自在の関係を築いてきた、あの生物種なのだ。その関係性が格別にすばらしいものだと主張するつもりはない。そこには喜びや創意工夫、労働、知性、あそびとともに、排泄物も、残酷さも、無関心や無知や喪失もあふれているのだから。わたしがしたいのは、この共歴史(co-history)を語るすべを学び、自然‐文化において共進化の帰結を継承する方法を身につけることである」
ニトラムがサーフィンをやろうとするのは、彼がよく目にする若者ジェイミーがサーフィンをやっているからで、自分も同じ人間になり、集団に帰属したいと思っている。しかし、いきなりサーフィンをやろうとしてもうまくいくはずもなく、バカにされるだけで受け入れられない。社会から除け者にされたニトラムが、犬の面倒をみるだけでなく、犬と関係を構築することができたら、彼は人間中心主義の呪縛から解放され、新たな世界観を獲得することができたかもしれない。
しかし彼には、人間中心主義の世界しかない。銃を購入した彼は、他者としての意味を見出せなかった犬たちを路上に放ち、彼を排除する人間中心主義の世界を破壊するためにポート・アーサーに向かう。 |