フォルカー・シュレンドルフがミシェル・トゥルニエの初期代表作を映画化した「魔王」には、アベルという男がたどる数奇な運命が描かれる。
パリの寄宿学校にいた少年時代、体罰を免れたいばかりに学校が燃えるよう祈ったところ、偶然にも火事が起こる。以来彼は、自分を導く運命を信じるようになる。30年代末、成長して自動車修理工となった彼は、大人の社会には馴染めないが、子供には好かれている。しかし、ある少女への親切心が仇となり、強姦罪で告発されかかる。そんな窮地を救うのが戦争だ。彼は前線に送られ、捕虜となる。ところがドイツ軍の官長に目をかけられ、ゲーリング元帥の別荘で車の整備員となる。やがて今度は、ドイツ軍士官学校になっている貴族の城で雑用係となり、少年の勧誘に辣腕を振るい、少年たちに慕われる一方で、子供をさらう"鬼"として恐れられる。
東プロシアの幻想的な森を背景にした映画の中盤以降のドラマには、どこかお伽噺を思わせる空気が漂いだす。それは、アベルの内面がいまだ子供のままで、現実や善悪を認識していないということももちろんある。しかしそれだけではなく、このドラマを特異で印象深いものにしているのは、アベルがある絵本のなかに見出した狩猟の世界に引きつけられ、自らもハンターになっていくことなのだ。
「テルレスの青春」以来、人間が生みだす支配と服従のメカニズムを、異化効果をかもしだす特異な視座から描きだしてきたシュレンドルフは、多様な象徴や引用に満ちたトゥルニエの神話的世界を、特に狩猟に焦点を絞って映像化している。ちなみに、トゥルニエの代表作のひとつ「メテオール(気象)」には、狩猟に関してこんな文章が出てくる。「フェンシングと登山。(中略)一方は相手を制することを目的とし、他方は風景を支配下におくことを目的とする。(中略)この二つを統合した、スポーツの中でももっとも崇高なもの、それが狩猟だ。狩猟においては、敵=獲物は風景の中に身を隠し、そこから離れられない。そこでハンターのなかでは風景への愛と獲物への欲望とがせめぎあう」
寄宿学校時代、アベルが狩猟に引かれるきっかけを作ったのは、巨漢の親友ネスターだ。この親友は、ひ弱なアベルを苛めから守り、カナダの自然を背景に狩猟生活を描いた絵本を彼に読ませた。ところがネスターは、問題の火事で死亡してしまう。その時アベルは、親友の死を受け入れるのではなく、物語の世界を選んだ。それは学校という厳格な集団からの解放と同時に逃避も意味している。
捕虜となったアベルは、物語の世界を現実として生きはじめる。密かに収容所を抜けだし、無人の山小屋で過ごす彼は、罠で獲物を捕らえ、ハンターになる。さらにハンターであることが、彼をゲーリングのもとに導く。そして、ナチスの世界に紛れ込んだ瞬間、彼の物語の世界は完全な現実に変わる。ゲーリングは自らの欲望のままに大掛かりな鹿狩りを行い、彼が去った後、士官学校に移ったアベルは、彼とまったく同じことを行う。獲物は言うまでもなく少年である。彼は馬にまたがり、三匹のドーベルマンを従えて少年を狩る。ゲーリングは、鹿肉の味が落ちないように睾丸を切り取り、獲物を庭に整然と並べ、力を誇示する。アベルはナチスのイデオロギーとは異質な世界を生きているにもかかわらず、松明の炎が鉤十字を描く広場では、彼の獲物たちが儀式を通して洗脳されていく。
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