だが、リーマン・ショック以後の時代や社会をとらえようとする視点については、いささか焦点がずれているという印象を受ける。これまでにも景気後退やリストラがなかったわけではない。ウェルズが描いているのは、そういう状況で必ず生まれるドラマといえる。リーマン・ショック以後を扱うのであれば、モラルに関する意識の変化を掘り下げる必要がある。
ただし、焦点がずれているとはいえ、サバービアのアメリカン・ファミリーをめぐる興味深いドラマになっていることは間違いない。筆者は拙著『サバービアの憂鬱――アメリカン・ファミリーの光と影』(93)で、以下のように書いた。
「郊外の世界は、奇妙な表現ではあるが、階級のない世界の階段を登っていけるような構造になっている。たとえば、あるコミュニティのなかで収入が増加し、所有するものが贅沢品とみなされるようになれば、それは移動のときを迎えたことを意味する。要するに、もっと豊かな生活が必要となれば、その場で豊かにするのではなく、もっと豊かな生活が平均化したコミュニティに移動すればいいのだ。そうすれば、以前よりも立派な家やものを手にしても、新しいコミュニティでは必然ということになる。
こうして奇妙な安心感のなかで、郊外居住者たちは上へと向かい、活発な消費をつづけていく。ただし、この郊外の階段は上にしか向かわない構造になっている。もし何らかの理由で生活レベルが後退することになったとき、その家族は“平等な”郊外のなかで孤立するという脅威にさらされることになる(後略)」
さらに同書の別の章では、ウィリアム・H・ホワイトの『組織のなかの人間――オーガニゼーション・マン』を引用して、そのことを掘り下げた。本書では、郊外居住者がその収入の最低線を下回ることになった場合について、以下のように書かれている。
「ただ単に、家庭から幾つかの贅沢品がとりあげられるかもしれないという脅威になるだけではない。それは彼らをひとつの生活様式からほっぽりだしかねないのだ。郊外住宅地はチャチなお上品振りを大目に見たりはしない。支出がひどく切りつめられれば、おそらくはかえりみられないような楽しみ事も、二義的な付属的なものではないのである。中産階級の端くれに位置している家庭にとっては、それらは社会的な必需品なのである」
『カンパニー・メン』に登場するのは、大企業で成功を収めたアッパーミドルの人々だが、ここまで書いてきたことは彼らにも当てはまる。ボビー・ウォーカーは単にエリート意識から脱却できないのではない。彼は揺るぎない生活様式という檻のなかにとらわれ、動きがとれない。大邸宅やポルシェやカントリークラブを失うことは、彼の存在そのものを否定することにもなりかねないのだ。それは、フィルやジーンも同じだ。
この映画では、夫婦関係が男たちの運命を分ける。ボビーの場合は、妻ができた人間だったので、彼は檻から出ることができる。これと対照的なのが、フィルの運命だ。彼は解雇され、職もないのに、毎朝、出社を装って家を出て、夕方まで時間をつぶさなければならない。妻が隣人たちに解雇の一件を知られ、コミュニティのなかで孤立することを恐れるからだ。フィルは檻のなかで追いつめられることになる。
ジーンの場合はもっと複雑だ。彼は、贅沢極まりない生活を送る妻の浪費癖に辟易し、人事部門責任者のサリーと不倫している。そして、解雇されても、リストラによって会社の経営状況が好転し、株に反映されるため、多くの自社株を所有する彼は、大きな利益を得ることにもなる。しかし、企業人としてヒューマンリソースを重視する彼は、そんな不条理な状況を清算し、新たな道を歩み出す。
この映画は、生活レベルの後退という危機に直面するアッパーミドルのドラマとして興味深く見ることができる。
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