かいじゅうたちのいるところ
Where The Wild Things Are  Where the Wild Things Are
(2009) on IMDb


2009年/アメリカ/カラー/101分/シネマスコープ/ドルビーSRD・SDDS・DTS
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(初出:『かいじゅうたちのいるところ』劇場用パンフレット)

 

 

本編に散りばめられたスパイク・ジョーンズの足跡を発見!

 

 アメリカ映画界のなかでも、そのユニークな感性と表現で異彩を放つ監督スパイク・ジョーンズ。彼の創作の出発点は、PVにある。自身スケートボーダーで、スケートボードの写真やPVを撮っていたジョーンズは、ソニック・ユースのキム・ゴードンからPVの共同監督の話を持ちかけられたことがきっかけで、本格的にビデオの監督の道を歩みだした。

 独学で映像表現のノウハウを身につけた彼は、ビースティ・ボーイズやビョーク、ファットボーイ・スリム他のPV、ナイキを筆頭としたCMで大きな注目を集めるようになった。そして、ジョーンズがPVやCMで切り開いてきた独自の世界は、劇映画にも引き継がれ、発展を遂げている。

■■子どもの目線■■

 そんな独自の世界について、ここでまず注目したいのが子どもの目線だ。ジョーンズは、子どもの目線に立って世界、人や物を見ることができる。そこから現実に縛られない自由な発想が生まれる。

 たとえば、ワックスの“California”のPVでは、背中から足にかけて火のついた男が、ストリートを駆け抜けていく。この作品はスローモーションで撮影され、通行人も特別な反応を示さないので、夢の世界のようにも見える。そして最後に、その光景が、車に乗った少女の目で見られた世界であることが明らかになる。子どもの目線、そこではどんなことも起こりうる。『かいじゅうたちのいるところ』では、そんな子どもの目線に立って冒険の物語が紡ぎだされていく。

■■溶解するコミュニケーションの境界■■

 しかし、ジョーンズが切り開くのは、単なる何でもありの世界ではない。彼が強い関心を持っているのは、他者との関係、コミュニケーションであり、そんなテーマを彼ならではの発想と表現で掘り下げていく。

 ジョーンズの世界では、人間と動物の境界が曖昧になっていく。ダフト・パンクの“Da Funk”のPVでは、犬のマスクをかぶり、足を骨折した犬男が、ニューヨークの街を歩き回る。だが、通行人たちは特別な反応を示さないし、偶然に出会った幼なじみの女性も、犬男と普通に話をする。

 『マルコヴィッチの穴』(99)では、ペットショップで働くロッテが、チンパンジーやオウムなど様々な動物たちと暮らしている。彼女にとって人間と動物に境界はなく、トラウマを背負うチンパンジーは精神療法を受けている。さらにチンパンジーの主観を表現した映像も盛り込まれている。『かいじゅうたち〜』でマックスが出会うかいじゅうたちも、その喜怒哀楽が人間を思わせる。ジョーンズは、そんな設定を通して、普通とは異なる観点からコミュニケーションを見直そうとする。

 一般的にコミュニケーションといえば言葉が重要な位置を占めるが、言葉だけでわかり合えるとは限らない。『マルコヴィッチの穴』で人形遣いのクレイグが就職する会社の秘書と社長は、言葉をめぐってまったく対照的に描かれている。秘書は普通に言葉を話しているつもりらしいが、クレイグや観客には、その意味がわからない。社長は自分の言葉に問題があると信じているが、クレイグや観客には普通に理解できる。『かいじゅうたち〜』にも、言葉をめぐる溝が描かれる。KWの新しい友だちであるフクロウのボブとテリーは、ただギャーギャーと鳴いているようにしか見えないが、それがKWには言葉のように理解できるらしい。

■■ダンスと破壊的衝動■■

 そして、ジョーンズがそんな言葉に代わるものとして愛着を示すのが、ボディランゲージ、身体による表現だ。クリストファー・ウォーケンが踊りまくるファットボーイ・スリムの“Weapon of Choice”やミュージカル仕立てのビョークの“It’s Oh So Quiet”、ソフィア・コッポラが体操選手を演じるケミカル・ブラザーズの“Elektrobank”など、彼のPVでダンスや運動が際立つのは偶然ではない。『マルコヴィッチの穴』では、クレイグに操られるマルコヴィッチが“苦悩と失意のダンス”を踊る。『かいじゅうたち〜』では、王様として受け入れられたマックスの命令で、かいじゅうおどりが始まる。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   スパイク・ジョーンズ
Spike Jonze
脚本 デイヴ・エッガース
Dave Eggers
原作 モーリス・センダック
Maurice Sendak
撮影 ランス・アコード
Lance Acord
編集 エリック・ザンブランネン、ジェイムズ・ヘイグッド
Eric Zumbrunnen, James Haygood
音楽 カレン・オー、カーター・バーウェル
Karen O, Carter Burwell
 
◆キャスト◆
 
マックス   マックス・レコーズ
Max Records
ママ キャサリン・キーナー
Catherine Keener
ママの恋人 マーク・ラファロ
Mark Ruffalo
KW ローレン・アンブローズ
Lauren Ambrose
ダグラス クリス・クーパー
Chris Cooper
キャロル ジェイムズ・ガンドルフィーニ
James Gandolfini
ジュディス キャサリン・オハラ
Catherine Ohara
アイラ フォレスト・ウィティカー
Forest Whitaker
アレクサンダー ポール・ダノ
Paul Dano
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(配給:ワーナー・ブラザース映画)
 
 
 
 
 

 さらに、もうひとつのボディランゲージとして見逃せないのが、子どもが持つ破壊的な衝動だ。ジョーンズのPVの根底にあるのは、現実や常識を覆すような破壊的な衝動だといえる。『かいじゅうたち〜』には、そんな衝動が鮮明に描き出されている。

 映画の冒頭で、孤独なマックスは、奇声を発しながらペットの犬を追いかけまわす。マックスとキャロルは、言葉ではなく球体の家を壊すという行動を通して接近し、絆を育んでいく。王様のマックスは、かいじゅうたちの間に生じた不協和音を泥ダンゴ合戦で解消しようとする。しかし、映画が物語るように、破壊的な衝動で問題が解決するわけではない。マックスが壁を乗り越えるためには、自己を見つめ、内側から変わらなければならない。

■■二面性とパラレルワールド■■

 そこで注目したいのが、ジョーンズの劇映画に共通するふたつの要素だ。彼の映画の主人公たちは、二面性を持っている。『マルコヴィッチの穴』では、マルコヴィッチの穴の発見によって、クレイグ、ロッテ、マキシンという主人公たちの隠れた一面が露になり、彼らの間で裏切りが繰り返されていく。『アダプテーション』(02)でニコラス・ケイジが二役をこなす双子の脚本家は、悲観主義と楽観主義の二面性を象徴している。さらに映画の終盤では、もうひとりの主人公オーリアンのもうひとつの顔が暴きだされる。『かいじゅうたち〜』のマックスは、孤独な少年と王様のふたつの顔を持ち、次第にそのバランスを失っていく。

 もうひとつの共通点は、パラレルワールドだ。ビョークの“It’s Oh So Quiet”のPVでは、歌の部分は現実世界でコーラスの部分はファンタジーになる。『マルコヴィッチの穴』では、クレイグやロッテがマルコヴィッチのなかに入ることによって、それぞれがもうひとつの世界を持ち、複数の世界が絡み合っていく。『アダプテーション』では、カウフマン兄弟とオーリアンのふたつの物語が、接点を持ちながら並行して語られ、最後に交差する。『かいじゅうたち〜』では、マックスが持っているおもちゃとかいじゅうたちの家、クレアとマックスという姉弟の関係とKWとキャロルの関係、雪合戦と泥ダンゴ合戦などを通して、現実世界とかいじゅうたちの世界がパラレルな関係にある。

 そして、マックスが本来の自己を受け入れ、二面性とパラレルな世界から脱却するとき、彼と他者の関係はこれまでとは違ったものになっている。

■■ストリート・カルチャーを愛する少年像■■

 一方で、この『かいじゅうたち〜』には、これまでのジョーンズの劇映画には見られなかった要素が盛り込まれている。『マルコヴィッチの穴』と『アダプテーション』は、脚本家チャーリー・カウフマンとのコラボレーションで、奇想天外なカウフマンの発想や世界観が強烈な印象を残すが、『かいじゅうたち〜』では、ジョーンズの世界がより前面に押しだされている。

 彼の生い立ちと映画には接点があるように思われる。ジョーンズ(本名:アダム・スピーゲル)の両親は、彼が2歳のときに離婚した。アダムと姉は母親に引き取られ、母子はニュージャージーやフィラデルフィアに移り住んだあと、メリーランド州にあってワシントンD.C.の郊外になる町に落ち着いた。『かいじゅうたち〜』のマックスの家庭環境には、アダムの少年時代が投影され、ジョーンズにとってパーソナルな作品になっているのではないか。

 ここでそんなジョーンズの少年時代を、年代は異なるが同じようにサバービア(郊外住宅地)で育ったスティーヴン・スピルバーグやティム・バートンのそれと対比してみるのも面白いのではないだろうか。スピルバーグやバートンは、画一的なサバービアのなかで孤立し、想像の世界を構築し、やがて監督になった。そんな彼らは少年時代に関わるパーソナルな作品を撮っている。

 スピルバーグは『E.T.』(82)について、「『E.T.』のあの家は、ぼくが育った家そのものだ。かわいらしい少女ガーティは、ぼくの3人の妹たちを融合させたものなんだ」(※1)と語っている。バートンは『シザーハンズ』について、「これまで、ぼくは自分の感情を完全に表現する機会を一度も与えられたことはなかった。この映画は、映像で自己確認を初めてやれた作品だった」(※2)と語っている。

 少年時代のジョーンズは想像の世界を構築するのではなく、BMXやスケートボード、そしてストリート・カルチャーを見出した。『かいじゅうたち〜』で、マックスとかいじゅうたちが疾走する姿には、ストリート体験の高揚を感じる。ジョーンズにとってこの映画は、スピルバーグやバートンにとっての『E.T.』や『シザーハンズ』と同じ意味を持っているのではないだろうか。

※1 『The Steven Spielberg Story : The Man Behind the Movies』 Tony Crawley (Quill, 1983)より引用
※2 『シザーハンズ』プレスより引用


(upload:2010/05/11)
 
 
《関連リンク》
スパイク・ジョーンズ 『マルコヴィッチの穴』 レビュー ■
スパイク・ジョーンズ 『アダプテーション』 レビュー ■
サバービアの憂鬱 ■

 
 
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