ロウ・イエの新作『ふたりの人魚』は、第6世代以降の作家たちが生み出す新しい中国映画の到達点を示しているといっても過言ではないだろう。この映画では、上海を流れる蘇州河を背景として、他の新世代の監督たちと同じように改革開放以後の中国が描きだされる。
しかし、ロウ・イエのアプローチは、他の監督たちとは一線を画している。彼は、現代中国に対する個人的な視点と社会的な視点を、どこまでも絡み合わせ、突き詰めることによって、社会の現実をとらえながらもリアリズムを乗り越えてしまう。
『ふたりの人魚』は、物語の語り手である"僕"の一人称の眼差し=カメラで描かれる。僕はビデオ撮影の出張サービスを仕事にし、この語り手が手にしているビデオでとらえられる世界が、そのままこの映画となる。僕はまず蘇州河を往来する人々の姿を見つめる。
1999年にジャ・ジャンクーにインタビューしたとき、彼は「中国映画の伝統に欠けているのは記録映画」だと語っていた。これまで記録映画といえば、政府によるプロパガンダを意味していたからだ。しかし市場経済の導入によって、映画をめぐる状況も変わった。ジャ・ジャンクーは、そんな状況も踏まえ、中国映画の未来についてこう語った。
「デジタル機材の普及によって、一般の個人が、自分たちが撮りたいものを自由に撮れるようになり、記録映画が人々にとって身近なものになりました。情報や機材が容易に手に入ることによって、中国映画の未来は、閉鎖的な映画産業の外から出てくる人たちが担っていくことになると思います」
『ふたりの人魚』の僕が手にするビデオ、仕事を宣伝するために彼が通りの壁にプリントする出張サービスの広告、そしてビデオに映し出される日常の風景は、この状況の変化を暗黙のうちに物語っている。しかし変化はそれだけではない。市場経済の広がりは、たくさんの予想もしがたい出会いをもたらす。お金になれば何でも撮影する僕は、仕事で出かけたバーで、水槽のなかで泳ぐ人魚メイメイに出会い、恋に落ちる。
そのメイメイは、時々前触れもなく姿を消してしまうなど奇妙な行動を見せるが、僕は目の前の彼女だけを受け入れ、一人称のカメラは彼女の影の部分には踏み込もうとはしない。というよりも、このカメラはいまだそういう想像力を持ち合わせてはいない。見えるものを受け入れることしかできないのだ。
しかしある日、そんな語り手の意識を変える出来事が起こる。マーダーという男が現れ、メイメイは彼の目の前で蘇州河に身を投げたムーダンだと言い出す。このマーダーが僕に語る物語は、彼とムーダンの出会いから悲劇的な結末に至るまで、すべてが市場経済と深く結びついている。
運び屋だったマーダーは、ある日、物ではなくムーダンという少女を運ぶことになる。ズブロッカの密輸で荒稼ぎする彼女の父親が、家に女を連れ込むときだけ娘を親戚に預けるのだ。マーダーはこの娘の運転手となり、ふたりの間には絆が育まれる。しかし彼の仲間が身代金目当ての誘拐を企て、彼もそれに加担することを余儀なくされる。そして、裏切られたことを知った娘は蘇州河に飛び込み、姿を消してしまう。 |