■■『いま ここにある風景』■■
グローバル化する世界をめぐり、産業によって著しい変貌を遂げた風景を撮り続けるカナダ人の写真家エドワード・バーティンスキー。ジェニファー・バイチウォル監督の『いま ここにある風景』は、そのバーティンスイーが中国を訪れ、急速な発展を遂げるこの国の“産業の風景”を写真に収める姿を記録したドキュメンタリーだ。
作業ラインがどこまでも続く巨大な工場、世界中から回収されたカラフルな再生資源の山、巨大な黒い山と煙突が並ぶ石炭採掘場、ジャ・ジャンクーの『長江哀歌』にも描かれた三峡ダムの工事現場、そしてやがて水没するために、移住する住人たちによって解体され、瓦礫の山となった町。そのスケールには誰もが息をのむことだろう。
合理性や効率だけを追求することから生まれた人工的な風景には、異様な美しさがある。と同時に、そんな風景を生きる人々や、グローバリゼーションによって彼らと繋がっている私たちは、異様な美しさを生み出す破壊的な力の脅威に晒されていることにもなる。
■■『ミラクル7号』■■
チャウ・シンチーがスピルバーグの『E.T.』にインスパイアされて作り上げたSFコメディ『ミラクル7号』には、そんな産業の風景を垣間見ることができる。
小学生のディッキーは、建設現場で働く父親とふたりでどん底の生活を送っている。父親の希望で名門小学校に通っているものの、裕福な同級生からいじめられる毎日。ディッキーがそんな生活に我慢できなくなったとき、父親がゴミ捨て場から奇妙な球体を持ち帰る。実はそれは、宇宙からの来訪者だった。
この映画は、改革開放の波に乗って発展し、上海経済圏の中核都市となった寧波で主に撮影されている。少年の父親が建築中の高層ビルから見渡す風景は、建設ラッシュのなかで変貌を遂げていく。だが、労働者たちが発展の恩恵に預かることはない。だから父親は、生活用品を求めてしばしばゴミ捨て場を漁る。
この映画では、貧富の格差が強調され、貧困にあえぐ親子が異星人に救われなければならないところに、ささやかな皮肉が込められている。
■■『小さな赤い花』■■
その一方で、このような厳しい現実に対して、過去を見直そうとする作品が登場してきても不思議はない。たとえば、中国の人気作家ワン・シュオの半自伝的小説をチャン・ユアン監督が映画化した『小さな赤い花』だ。
4歳の少年チアンは、北京にある全寮制の幼稚園に預けられる。そこでは、全員が同じであることを強要する教育が行われている。チアンはそんな方針に苦痛を覚え、反抗的な行動をとるようになる。
ワン・シュオの半自伝であることを踏まえるなら、この映画の時代設定は60年代初頭ということになる。だが、チャン監督は故意にそれを曖昧にしているように思える。おそらく彼は、このドラマをどこかで現代と結びつけようとしているのだろう。
筆者が興味を覚えるのは、画一的な教育や制度が逆に作用する瞬間だ。無邪気な園児たちは、女性教師が実は妖怪なのだというチアンの言葉を真に受け、一丸となって彼女の寝込みを襲おうとする。そんなエピソードは、現代の大人の社会を揶揄しているようにも思える。
■■『1978年、冬。』■■
リー・チーシアン監督の『1978年、冬。』では、タイトルにもなっている時代と舞台が独特の空気を醸し出している。1978年は、毛沢東の死で文化大革命が終わり、これからケ小平の改革開放政策が始まろうとする狭間の時期にあたっている。厳密にいえば、ケ小平が頻繁に南を視察し、改革開放はすでに動き出していたが、映画の舞台となる閉ざされた架空の田舎町は、政治的な空白のなかにあり、変化のない毎日が繰り返されている。
そんな田舎町のなかで、外の世界に漠然とした憧れを持つ工場労働者の兄スーピンと、いじめられっ子で絵を描くことだけが楽しみの小学生の弟ファントウが、事情があって北京からやって来た少女シュエンに惹かれていく。そして、狭間の時代、冬場の閑散とした風景のなかに、三者それぞれの孤独と素朴な感情が浮かび上がる。
1962年生まれのリー監督は、人々が急激な変化に翻弄されていくその後の時代を踏まえ、原点に立ち返るかのように、自身の記憶と結びついたこの世界を作り上げている。
■■『天安門、恋人たち』■■
そして、そんな静の表現とは対照的なスタイルで、その後の変化の時代を鮮やかに描き出していくのが、ロウ・イエ監督の『天安門、恋人たち』だ。この映画には、女と男の愛と生の軌跡が描き出されるが、それは中国社会の変化と不可分の関係にある。
家族や恋人が暮らす故郷を離れ、中国東北部から北京の大学に入学した娘ユー・ホンは、そこでチョウ・ウェイと出会う。彼らは、民主化運動が盛り上がりを見せるなかで、強く惹かれるあまり傷つけあい、天安門事件を転機にそれぞれの道を歩みだす。チョウ・ウェイは、自由を求めてベルリンに渡り、ユー・ホンは、経済発展によって変貌する南部に移り、男たちに身を委ねていく。
改革開放政策のなかで成長してきた彼らは、自由を謳歌しようとしたが、その政策がもたらしたのは、政治的な自由ではなく、経済的な自由でしかなかった。しかし、激しい愛によって踏み込んでしまった世界から後戻りすることはできない。
この映画は、そんな意識や感覚を生身の身体とセックスで表現していく。ユー・ホンは、自由の幻想のなかで、言葉や感情ではなく、セックスによって自分という存在を確認しようとするのだ。
■■『雲南の花嫁』■■
チアン・チアルイ監督の『雲南の花嫁』は、中国の少数民族を題材にした彼の雲南三部作≠フ二作目にあたる。映画が描くのは、イ族の結婚にまつわる物語だ。
イ族には、結婚した男女は三年間別々に暮らし、その間は結ばれてはならないというしきたりがある。だが、ヒロインの花嫁フォンメイは、幼なじみでもある夫アーロンへの気持ちを抑えきれず、次々に騒動を巻き起こしてしまう。
前作『雲南の少女 ルオマの初恋』とこの映画を並べてみると、監督が目指すものがより明確になる。ルオマが観光産業に巻き込まれ、フォンメイがビールの広告塔になることを余儀なくされるように、少数民族の世界には近代化の波が押し寄せる。さらに、二人のヒロインには、母親の不在という断絶がある。
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