ただいま

1999年/中国=イタリア/カラー/89分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(書き下ろし)
家族の再生のドラマから浮かび上がる中国社会の変貌

 1981年、16歳の高校生タウ・ランは、同じ高校生の義姉シャオチンと両親とともに、北京の下町でつつましい生活を送っていた。両親はどちらも再婚で、タウ・ランは母親の、シャオチンは父親の連れ子だった。娘たちに対する両親の接し方には微妙な温度差があった。勉強熱心で優等生タイプの姉には甘く、元気だけが取り柄のようなタウ・ランには厳しいところがあった。ある日、タウ・ランはささいな諍いから衝動的に姉に襲いかかり、死に至らしめてしまう。それから17年後、模範囚となったタウ・ランは、翌年の出所を前に、旧正月の一時帰宅を許される。しかし両親の出迎えはなく、彼女は、故郷が近い女性教育主任に付き添われるように家路につく。

 チャン・ユアンの「ただいま」に描かれるドラマは、いつ、どこででも起こりうることのように見える。しかしこのドラマには、現代の中国が至るところに反映されている。タウ・ランとシャオチンの悲劇は、文化大革命の時代(1966−1976)が終わり、過渡期を経て改革開放政策が本格化していこうとする時代に起こる。両親はこれまでイデオロギーに支えられて生きてきた世代だが、イデオロギーに頼れる時代は確実に終わろうとしている。それとともに集団の構成員ではなく、個人が自然と際立つようになる。母親は、自分の娘とはいえその出来の悪さに劣等感や不安、苛立ちを隠すことができない。それゆえタウ・ランには、家族の関係すべてが目に見えない抑圧となり、彼女を悲劇へと導いてしまう。

 タウ・ランが服役する17年という時間は長いが、それが改革開放の時代とぴたりと重なっているとなれば、なおさらである。この映画には、刑務所の壁を境界として内と外の世界が同時に映しだされる場面があるが、内側ではほとんど時間が止まっているのに対して、外側では、市場経済の導入によってこれまでとは比較にならない速度で世界が変化しているのだ。チャン・ユアンはこの場面で、排気ガスなどで外の空気が実質的にも変わりつつあることを暗示しているように筆者には思えた。


◆スタッフ◆

監督/編集/製作 チャン・ユアン(張元)
Zhang Yuan
脚本 ユー・ヒュア(余華)/ ニン・ダイ(寧岱)/ ジュウ・ウェン(朱文)
Yu Hua/ Ning Dai/ Zhu Wen
撮影 チャン・シクイ
Zhang Xigui
編集 ヤーコボ・クアドリ
Jacopo Quadri
音楽 チャオ・チーピン
Zhao Jiping

◆キャスト◆

タウ・ラン
リウ・リン(劉琳)
Liu Lin
シャオジエ リー・ビンビン(李冰冰)
Li Bingbing
母親 リー・イェッピン
Li Yeping
父親 リアン・ソン
Liang Song
ユー・シャオチン リー・ジュアン
Li Juan
(配給:K2エンタテインメント)


 だから外の世界は、彼女にとってカルチャー・ショックといっても過言ではない。再開発のために、懐かしの我が家は消え去り、そこかしこで古い建物が瓦礫の山と化し、都市の景観そのものが変わってしまっている。彼女は、車が途切れることなく走りつづける道路を横断することすらできない。われわれは、彼女の戸惑う姿を通して、中国の変貌を目の当たりにすることになる。

 タウ・ランは親切な教育主任の協力で、何とか両親の家を探しだし、両親と再会する。彼らは新しい住宅に暮らし、以前に比べれば生活は豊かになっている。しかし幸福ではない。チャン・ヤンの「こころの湯」にも描かれていたように、再開発は土地に根ざしたコミュニティを解体し、ばらばらになった住人はそれぞれに家族単位の生活を始める。もしこの両親が以前のようなコミュニティのなかで暮らしていたとしたら、その人間関係のなかで悲劇の記憶を乗り越えていくこともできたかもしれない。しかし両親は、豊かだが孤立した環境で、悲劇の記憶に閉じ込められてきた。彼らの家の扉にある鉄格子は、この映画では、個人所有と消費の新しい生活を象徴するだけではなく、彼らの心理をも象徴している。

 タウ・ランと両親は、ともに長年にわたって鉄格子のなかに閉じ込められ、悲劇の記憶を生きてきた。チャン・ユアンは、そんな家族の再生の物語を通して、中国社会の変化を浮き彫りにしているのだ。


(upload:2002/01/06)


《関連リンク》
「こころの湯」レビュー ■

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