ジョニー・デップが初めて監督に挑戦した映画『ブレイブ』は、筆者がこの一年ほどのあいだに観た映画のなかで最も胸を打たれた作品である。この映画は、インディアンを題材とした作品のなかでも見事なまでに異彩を放っている。
『ダンス・ウィズ・ウルブズ』や『ラスト・オブ・モヒカン』、『ジェロニモ』などは過去の物語であり、歴史を見直そうとすることに重点が置かれていた。昨年公開された『心の指紋』や『ネイティブ・ハート』は現代という設定ではあったが、
物語の展開のなかでその関心はやはり失われた過去の世界へと向かっていくことになる。
もちろん、これまで長いあいだ虐げられてきたインディアンの人々の歴史をしっかりと見直し、彼らが復権を果たすことが重要であることは言うまでもない。
しかし気になるのは、インディアンを題材にした映画がともすれば、彼らの過去や神秘的な世界に寄りかかりがちになることだ。そうした傾向には、いまの現実が見過ごされる危険性がある。実際、こうした映画におけるインディアンの復権は、
社会の現実に照らし合わせてみると皮肉なことのようにも思える。
たとえば、少年時代をインディアンの居留地で過ごした経験を持つジャーナリスト、ファーガス・M・ボーデウィッチが90年代のインディアンの現状をリポートした『Killing
the White Man's Indian』を読むと、 世紀末に向かって白人とネイティヴの立場や意識が大きく変わりつつあることがわかる。
本書によれば、白人社会は、差別と感傷が入り交じった神話のベールを通してインディアンを見ているばかりか、映画における彼らの復権によってインディアンになりたいと思う白人が増えつつあるという。これに対して、逆にインディアンは、
被害者の立場から脱皮し、資本主義を受け入れ経済的な独立を目指しているというのだ。それは、これまでのインディアンの失業率やアル中の比率の異常な高さなどを考えるなら、必然的な変化といってもいい。
また昨年、
筆者はインターネットで何人かのインディアンとメールを交換したことがあるのだが、ある若者は、白人たちがまるでいまが1830年代であるかのように、インディアンがバッファローか何かを殺すことを期待し、科学者やコンピュータのプログラマーであることがわかると落胆し、
現実も知らないのにインディアンになりたがるのだと語っていた。
映画『ブレイブ』には、まず何よりもそんな現実に対する辛辣な眼差しがある。消費社会の掃き溜めのような世界に家族と暮らす主人公ラファエルが、スナッフ・ムーヴィーに出演するのと引き換えに得た金で家族を守ろうとするという物語は、
まったくインディアンの過去に寄りかかろうとしていないばかりか、考えようによってはインディアンが資本主義を受け入れていこうとすることに対して波紋を投げかけるような含みを感じもする。
これまで俳優としてのデップは、
常に誰からもどこからも遠い場所で著しく孤立する主人公を演じることによって、周囲の世界を特異な眼差しで見つめてきたが、この映画では、そんな彼の立場がさらに研ぎ澄まされている。
それだけに、この映画ではインディアンの文化というものが安易に前面に出てくることはない。インディアンの人々は、同じように社会の周縁に追いやられたヒスパニックの人々などと共生し、バックに流れるラテン系の音楽などでもわかるように、
彼らの文化は確実に失われつつある。しかしながらデップは、漠然とそんな状況を描いているのではなく、アメリカのダークサイドに新たな神話を構築しようとしているのだ。
この映画で筆者が特に注目したいのは、バーで仕事を紹介された主人公が、目指すビルのところまで来て立ち止まり、しばらく考え込む場面。彼のわきにはクロスロード≠ニ書かれた標識が立っている。この場面と主人公が得る仕事の内容から、
筆者はすぐに有名なブルースマン、ロバート・ジョンスンの伝説を思い浮かべた。ジョンスンには、悪魔に魂を差しだすかわりにブルースの才能を手にしたという伝説がある。〈クロスロードのブルース〉はそんな彼の代表曲で、彼はクロスロードで悪魔と密約をかわしたともいわれる。 |