インディアンは長いあいだ虐げられ、差別されてきたが、現代のアメリカのなかで彼らを見つめる社会の眼は明らかに変化してきている。
			たとえば、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』や『ラスト・オブ・モヒカン』、『ジェロニモ』、『心の指紋』、
			『ネイティブ・ハート』などインディアンを描く90年代の映画では、悲劇の歴史が見直され、誇り高き戦士たちがヒーローとなって復権を果たし、
			大地に根ざした神秘的な癒しの力に関心が注がれている。
			さらに書物に眼を向ければ、エコロジーやニューエイジのムーヴメントと結びついたインディアンの精神文化に関する本が数多く出版されている。
			こうした傾向を見る限りでは、インディアンに対する認識は大きく変化し、彼らは社会に受け入れられているような印象を受ける。
			しかし実際には、これはあくまで一面であるばかりか、突き詰めていくとそんな傾向がインディアンの立場を複雑で難しいものにしているともいえるのだ。
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			 アレクシーは先述した「ヴィレッジ・ヴォイス」のインタビューで白人社会についてこんな過激な意見を述べている。
			「わたしは保守派よりもリベラルがインディアンの文化と人々により多大なダメージを与えていると思う。保守派はわたしたちのことが好きではないし、見下ろしてもいる。
			だからわたしたちとは交わらない。彼らは経済的にわたしたちを痛めつけるが、インディアンになろうとするようなことはあり得ない。
			リベラルは徐々にわたしたちに同化し、文化に入り込み、奪うことによってわたしたちを消し去る。わたしたちはそんなふうにして消えてしまうんだ」
			 ちなみに彼は、ネイティヴ・アメリカン≠ニいうのは、白人リベラルが作った表現であるとして、インディアン≠ニいう言葉を使う。
			さらに他のインディアンの作家については、このように語っている。「たくさんのインディアンの作家が(その生活について)方位やら大地の恵みやらワシの羽根のようなナンセンスを描いている。
			わたしたちはそんな生活をしていない。保留地(リザベーション)でわたしたちが直面しているのは、ウラニウムの汚染、アルコール中毒、自殺なんだ。わたしたちは他の人々と同様に、
			仕事や食べること、政治腐敗に悩んでいるんだ。他にやることもなく、水晶球をこすっているひまなんかないんだ」
			■■変貌を遂げるインディアン社会の実態■■
			 アレクシーの発言からは、現代のインディアンが置かれた状況に対する社会の認識と現実のあいだに大きなギャップがあることがわかるが、この言葉だけでは具体性に欠ける。
			そこでこのギャップを理解するうえでとても参考になる本がある。世紀末に向かって急激な変貌を遂げつつあるインディアンの社会を取材、
			検証するファーガス・M・ボードウィック  のノンフィクション『KILLING THE WHITE MAN'S INDIAN』(Doubleday)だ。実は筆者は『インディアン・キラー』を読む前にこの本を読んでいて、
			二冊から浮かび上がる現実が見事に共鳴しているのにまず驚かされ、このノンフィクションのおかげで『インディアン・キラー』で語られるものがいっそう鮮明に見えてきたという次第なのだ。
			さらに二冊がともに96年に出版されたというのも機が熟してきたという意味で象徴的なことのように思える。 
			
			 著者のボードウィックは、「リーダーズ・ダイジェスト」の特派員として世界を駆け巡るジャーナリストだが、インディアン社会には特別な親しみを持っていた。
			というのも、生前の母親がインディアンの環境改善を目指す協会で働いていたため、少年時代の彼は、各地の保留地を旅する生活を送っていたのだ。『KILLING〜』は、
			そんな彼が90年代前半に再びインディアンの世界を旅して回り、目撃した現実のリポートなのだ。
			 90年代のインディアンたちは、侵略の犠牲者という立場から脱皮し、巧みな政治的駆け引きで経済的、精神的な独立を勝ち取ろうとしている。
			インディアンがカジノ経営に乗りだしたという話は比較的よく知られているが、本書からは、実に様々な方法で自立を目指すインディアンの姿が浮かび上がってくる。
			と同時に、その背後にある複雑なジレンマも垣間見ることができる。
			 インディアンはこれまで極めて厳しい状況に置かれてきた。犯罪や自殺で死亡する人々の数は、アメリカの平均の2倍、自動車事故による死者は3倍、肝硬変は5倍、
			保留地におけるアル中の比率は50%以上、いくつかの保留地では失業率が80%を超え、高校を中退する若者が55%というのがそのあらましだ。これはまさに逃げだしたくなるような状況だが、
			にもかかわらず70年代から現在まで自分がインディアンであると主張する人々の数は確実に増加しているという。
			 その背景には、インディアンの姿勢の変化がある。たとえば、悲劇の歴史を背負いながらも一貫してインディアン以外の人々との交流を深めてきたチェロキー族は、
			その繋がりを生かして新しい世代がビジネスに乗りだす基盤を作り上げると同時に、少なくとも四分の一の血が流れていることという部族の基準を撤廃し、
			世紀の変わり目に政府から土地の分配を受けた部族の血を引いていることさえ証明できればすべて受け入れることとした。その結果、部族の人口は、75年の1万2千人から95年の16万2千人へと膨れ上がった。
			そして、モーテルやショッピング・モール、レストランなどの経営を軌道に乗せ、IBMなどの大企業傘下の工場を誘致し、ついには、インディアン社会を統括するインディアン局の管理から解放され、
			政府と直接交渉を進める自治権を獲得するまでになった。
			 他の部族も様々な経済活動に進出している。94年までには、カジノを含む何らかのギャンブル事業を進める部族が160を越え、確実に利益を上げている。さらに保留地にはまだ莫大な富が眠ってもいる。
			アメリカ全体の半分を占めるウラニウム、5〜10%の石油と天然ガス、3分の1の低硫黄の石炭など天然資源が豊富にあり、水量が豊富な川や漁獲権なども大きな政治力の源になるというのだ。
			■■インディアンと白人の皮肉な立場の逆転■■
			  但し、こうした経済的な自立に疑問や軋轢がないわけではない。様々な局面でインディアンとしてのアイデンティティが問い直されることになるからだ。部族に帰属することは、
			確固としたアイデンティティであるかのようだが、その基準は、部族によって、少なくとも8分の1であったり16分の1であったり、あるいは先述のチェロキー族のように曖昧になりつつある。
			しかも、他の人種と結婚する比率は、アメリカ全体ではたった1%であるのに対して、インディアンの場合は33%と非常に高く、10年後には50%に達すると見られている。
			その一方で、社会的な影響力が大きいハリウッド映画などでインディアンのイメージが大きく変わったことで、インディアンになりたいと思う人々が増えるといった傾向も生まれ、
			そのアイデンティティはいっそう曖昧になってきている。
			 また、自然や科学に対する考え方も大きく変わろうとしている。アメリカでは、この十数年のあいだにかつて学術的な研究のためにインディアンから奪い去られた部族の遺骨や遺品がそれぞれの部族のもとに返還される動きが広がった。
			その時、ある部族は、遺骨を埋葬する前に学者たちに徹底した科学分析を依頼した。彼らは、科学の力を逆に利用することで、過去への扉を開き、伝統を立て直そうとしたのだ。===>2ページへ続く