正直なところ、これまでレオス・カラックスの作品は、話題になることは理解できるものの、個人的にはあまり興味を持てなかった。彼の感性そのものが、映画のなかで純粋培養され、作品も映画というもののなかですべて完結してしまっているように思え、突き抜けるような高揚を感じなかったのだ。
しかし、この『ポンヌフの恋人』を観て少し考えが変わってきた。それは、この映画にこれまでと違うカラックスを感じたからではない。逆に、カラックスのあまりにも変わらない部分に好奇心がわいてきたのだ。
この映画が、いかに製作に難航した大作でも、ドニ・ラヴァンとジュリエット・ビノシュが難しい役柄をこなそうと、橋を彩る花火がいかに華麗で切なくとも、そういったことがすべておまけに見えてくるくらいに、映画の本質はほとんど何も変わっていない。
まさにカラックスの世界には、"ボーイ・ミーツ・ガール"しかない。そこから発展することもないし、後退することもない。この映画のラストでは、男女と世界の関係に発展があるかのように見えるが、筆者にはやはりカラックスは、"ボーイ・ミーツ・ガール"という時間から一歩も出ていないように感じた。
そしてここまで徹底していると、過去の作品を振り返ったうえで、心を動かされるものがある。"汚れた血"ではないが、カラックスは"ボーイ・ミーツ・ガール"をAIDSにも比すことができる致命的で皮肉な病として反復し、それを彼にとって映画と同義のものにしようとしているとしか思えない。そして、なるほどこの致命的な病に感染すれば、男と女は言葉を交わすのにも、時としてお互いに見つめあうことすら許されなくなるのだ。
カラックスの映像はスタイリッシュで繊細だが、本質的には不器用な作家なのだろう。そして、3作品を通して彼の病が確実に重くなっているという意味で、その本質が次第に魅力的なものになろうとしている。
映画によって純粋培養された感性と映画のなかで完結する映画を内側から破壊し、カラックス自身にもコントロールすることができないほど深くウイルスに侵され、暴走する映画が生まれるのも、もうそれほど遠い先のことではないのではないだろうか。 |