パリを舞台に、境遇の異なる娘たちの三者三様のささやかな冒険を描くジャック・リヴェットの『パリでかくれんぼ』。この映画に盛り込まれたミュージカル仕立てのスタイルは、実に新鮮であり、
ミュージカルにはこんな使い方もあったのかという驚きを与えてくれる。
但し、ミュージカル仕立てといっても、三時間近い作品の全編に歌やダンスが散りばめられているわけではない。冒頭から一時間ぐらいは普通というか、現実的なドラマが展開していく。それだけに唐突に歌とダンスが始まり、
ミュージカルの要素が前面に出てくると、調子が狂ってしまうという人もいることだろう。ところが、ひとたびはまってしまうと、これが絶大な効果を生むのだ。
この映画のヒロインであるルイーズ、ニノン、イダの三人はそれぞれの事情で地方からパリに出てきているが、そこにはある種共通するイメージがある。
裕福な家庭の子女ルイーズは、これまでの五年間、事故で昏睡状態にあり、退院後はしばらく父親と距離を置いて生活する決心をしている。男と組んでゆすりやたかりで生活していたニノンは、相棒が殺傷沙汰の事件を引き起こしたのをきっかけに、
それまでの生活からの逃亡をはかる。あまり生活が豊かではない家庭に育ったイダは、自分が養子であると固く信じ、親元を離れて本当の母親の面影を追い求めている。
つまり彼女たちはそれぞれに自分の過去を喪失し、根無し草として存在している。しかもリヴェットは、そんな彼女たちの新たな日常に非常に印象的な背景を与えている。
たとえば、イダは装飾美術館の図書室で司書をしている。その図書室には装飾にまつわる歴史的な資料が天井まで整然と並べられている。そんな空間のなかで、孤児でルーツがないというコンプレックスにくよくよ悩む彼女の存在は、
まるでのしかかってくる歴史の重みにいまにも押しつぶされそうになっているように見えてくる。
一方、そのイダと対照的なのがルイーズだ。彼女は叔母が残した屋敷で過ごすようになるが、そこには、高価な骨董品の調度が所狭しと並んでいる。五年もの時間的な空白を体験し、しかも後遺症で高いところに立つと目眩を起こしてしまう彼女が、
そんな空間に立つと、イダとは逆に、歴史の高みから今にも足を踏み外しそうな危うさが見えてくるのだ。
但し、対照的とはいうものの、彼女たちが現在のパリを闊歩しているように見えながら、現実との接点を失い、自分たちの過去とは比べものにならない歴史のなかで宙づり状態になっていることに変わりはない。
では残ったニノンはといえば、彼女はイダやルイーズと違い、とりあえず地に足がついている。彼女は宅配の仕事につき、パリの街を駆けずりまわりながら、何とか舞い上がることを夢見る。
あるいは、他のふたりが出ない答えに悶々としているのに対して、出てしまっている答えからひたすら逃れようとしていると言ってもいいだろう。 |