愛の発見
――『ランジェ公爵夫人』と『接吻』をめぐって


ランジェ公爵夫人/Ne touchez pas la hache―― 2006年/フランス=イタリア/カラー/137分/ヴィスタ/ドルビーSR
接吻/The Kiss―――――――――――――――― 2006年/日本/カラー/108分/アメリカンヴィスタ/DTR・SR
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(初出:「Cut」2008年4月号 映画の境界線80)

 

 

 ジャック・リヴェット監督の『ランジェ公爵夫人』は、バルザックの『十三人組物語』の一編をかなり忠実に映画化した作品といえるが、もちろん小説と映画は違う。原作では、1823年のプロローグから、5年前の物語へと移行する前に、当時のパリの状況や貴族の立場が、歴史的、社会的に考察される。そして、その延長線上に、パリ社交界を象徴するランジェ公爵夫人と彼女の対極に位置するモンリヴォー将軍が登場し、それぞれの複雑な人物像を描き出すために、多くの言葉が費やされる。この主人公たちの運命は、社会や時代と密接に関わっている。

 映画では、そんな説明的な要素が切り捨てられ、すべてが男女の関係や駆け引きに集約されていく。それだけに、彼らそれぞれの存在の変化が際立ち、印象深いものになる。ランジェ公爵夫人は、貴族階級の優位が失われつつある時代に、既成の秩序にすがりつき、社交界に君臨している。その既成の秩序とは、単純にいえば、貴族が思考する頭で、民衆が行動する身体ということだ。彼女は、頭で社交界を仕切り、ゲームを繰り広げる。一方、モンリヴォー将軍が、社交界で持てはやされるようになったのは、戦争で英雄になったからではない。彼は、ナポレオンが敗退したあと、自分の能力を試すためにアフリカの奥地を探検し、九死に一生を得て祖国に帰還したのだ。

 そこで、夫人がモンリヴォーに興味を持つとき、頭と身体、洗練と野生が向き合う。ふたりは対照的だが、ひとつ共通点がある。それは、彼らが「同じように恋愛の道に心得がなく、この点では、たがいに似たようなものだった」ということだ。そして、愛を知らない彼らが、それぞれの力を行使するとき、予期せぬかたちで相手を変えていくことになる。

 夫人は、社交界という地の利を生かし、知略をめぐらして、徹底的にモンリヴォーを翻弄する。これに対して、隠れた権力を持つ彼は、ものをいわせぬ力によって、彼女を拉致する。しかし、彼らの関係はそれほど単純ではない。たとえば、原作では、夫人にのめり込むモンリヴォーの変化が、以下のように表現されている。「彼は、はじめて、人生というものを感情で理解した。いままでの彼は、ただ、人力の度を越すような行動と、兵隊のような、ほとんど肉体的な献身とで、生きてきたのにすぎなかった」

 この映画が強調するのは、そうした変化であり、特に夫人の変化が、映画的な表現によって実に鮮やかに描き出されている。注目しなければならないのは、モンリヴォーが夫人を拉致する前後の舞踏会だ。そこでは、男と女が頭で考えられた規則に従って、人形のように踊りつづける。だが、モンリヴォーの脅威を感じはじめている夫人は、人形に成り切れない。そして、拉致された彼女は、乱暴されることもなく自己の身体に目覚め、舞踏会に連れ戻されたときには、そこが別世界に変わっている。

 プロローグで、修道院の鉄格子に隔てられたふたりは、すでに愛を知っている。かつて信仰すら駆け引きの道具に使っていた彼女は、愛するための身体を獲得したからこそ修道女にもなり得た。一方、モンリヴォーは、彼女の歌声に心をかき乱される男になっている。彼らはお互いに相手を再創造し、それが愛の発見に繋がっていくのだ。

 これに対して、万田邦敏監督の『接吻』では、そんな愛の発見が衝撃すら覚えるドラマのなかに描き出される。一見ごく普通のOL・遠藤京子は、テレビカメラに向かって不敵な笑みを浮かべながら連行されていく殺人鬼・坂口秋生を目にした瞬間、恋に落ちる。自分たちが同類であることを直観するのだ。彼女の熱烈な手紙や差入れは、沈黙する坂口の心を動かし、ふたりは、死刑が確定したあとも面会できるように結婚する。だが、やがてその関係に破綻が生じる。


 
―ランジェ公爵夫人―

◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ジャック・リヴェット
Jacques Rivette
原作 オノレ・ド・バルザック
Honore de Balzac
脚本 パスカル・ボニゼール、クリスティーヌ・ローラン
Pascal Bonitzer, Christine Laurent
撮影監督 ウィリアム・リュブチャンスキー
William Lubtchansky
編集 ニコール・リュブチャンスキー
Nicole Lubtchansky

◆キャスト◆

ランジェ公爵夫人   ジャンヌ・バリバール
Jeanne Balibar
モンリヴォー将軍 ギヨーム・ドパルデュー
Guillaume Depardieu
ブラモン=ショーブリ妃 ビュル・オジェ
Bulle Ogier
ヴィダム・ド・パミエ ミシェル・ピコリ
Michel Piccoli
(配給:セテラ・インターナショナル)
 
 
―接吻―


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   万田邦敏
脚本 万田珠実
プロデューサー 仙頭武則
撮影 渡部眞
音楽 長嶌寛幸

◆キャスト◆

遠藤京子   小池栄子
坂口秋生 豊川悦司
長谷川 仲村トオル
坂口の兄 篠田三郎
 
(配給:ファントム・フィルム)
 
 

 坂口と京子は、他人に都合よく利用される以外は、世の中からその存在を否定されているような人間だ。愛するための身体を持てないふたりは、愛を知らない。そんな彼らは、死刑に値する重罪を犯し、凶悪犯の妻となることではじめて、可視の存在となる。だが、彼らの立場は決して同じではない。坂口のなかには、恐怖心や感情が芽生える。それは、彼が身体を獲得したことを物語る。一方、京子のなかには一途な恋心があるが、それが宿っているのは頭のなかであって、彼女が愛するための身体を獲得していないことが次第に明らかになっていく。

 京子がテレビで目にして、恋に落ちるのは、本当は坂口ではなく、そうなれるはずの自分だ。彼女は、坂口に関する記事をスクラップし、その人生をノートに整理し、理解していくが、彼女が綴っているのは、本当は自画像だ。だから、頭のなかで身動きがとれなくなり、出口を見失っていく。彼女が本当に身体を獲得するためには、彼女を呪縛する鏡を壊さなければならなくなる。

 この映画では、存在の可視化が象徴的に描かれる。坂口は、犯行のあとで家族の死体をダイニングに集め、ロウソクを灯し、<ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー>を歌う。自分が可視化され、誕生することを祝うように。そして、京子もまた、坂口と直接面会する希望が叶うラストで、彼にケーキを差し出し、同じ歌を歌う。だがそれは、彼の誕生日を祝うためではない。彼女は、頭のなかで作り上げてきた世界を破壊し、自分の誕生を祝う。そして、ついに身体を獲得した彼女のなかには、予想もしない感情がわき上がってくる。

 京子は坂口に宛てた手紙のなかで、彼の声を聞くことを切望していた。その願いは、法廷で叶えられるが、彼女が自分に恋していたのだとすれば、話は違ってくる。彼女が本当に聞きたかったのは自分の声であり、その願いは、衝撃的なラストで叶えられる。私たちがそこで目撃する凶暴な“接吻”は、彼女が獲得した身体からほとばしる声を意味する。その声は、愛を知らなかった彼女が、それを発見したことを告げている。

《参照/引用文献》
『バルザック全集 第七巻』●
岡部正孝・他訳(東京創元社、1974年)

(upload:2009/03/19)
 
 
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