ジャック・リヴェット監督の『ランジェ公爵夫人』は、バルザックの『十三人組物語』の一編をかなり忠実に映画化した作品といえるが、もちろん小説と映画は違う。原作では、1823年のプロローグから、5年前の物語へと移行する前に、当時のパリの状況や貴族の立場が、歴史的、社会的に考察される。そして、その延長線上に、パリ社交界を象徴するランジェ公爵夫人と彼女の対極に位置するモンリヴォー将軍が登場し、それぞれの複雑な人物像を描き出すために、多くの言葉が費やされる。この主人公たちの運命は、社会や時代と密接に関わっている。
映画では、そんな説明的な要素が切り捨てられ、すべてが男女の関係や駆け引きに集約されていく。それだけに、彼らそれぞれの存在の変化が際立ち、印象深いものになる。ランジェ公爵夫人は、貴族階級の優位が失われつつある時代に、既成の秩序にすがりつき、社交界に君臨している。その既成の秩序とは、単純にいえば、貴族が思考する頭で、民衆が行動する身体ということだ。彼女は、頭で社交界を仕切り、ゲームを繰り広げる。一方、モンリヴォー将軍が、社交界で持てはやされるようになったのは、戦争で英雄になったからではない。彼は、ナポレオンが敗退したあと、自分の能力を試すためにアフリカの奥地を探検し、九死に一生を得て祖国に帰還したのだ。
そこで、夫人がモンリヴォーに興味を持つとき、頭と身体、洗練と野生が向き合う。ふたりは対照的だが、ひとつ共通点がある。それは、彼らが「同じように恋愛の道に心得がなく、この点では、たがいに似たようなものだった」ということだ。そして、愛を知らない彼らが、それぞれの力を行使するとき、予期せぬかたちで相手を変えていくことになる。
夫人は、社交界という地の利を生かし、知略をめぐらして、徹底的にモンリヴォーを翻弄する。これに対して、隠れた権力を持つ彼は、ものをいわせぬ力によって、彼女を拉致する。しかし、彼らの関係はそれほど単純ではない。たとえば、原作では、夫人にのめり込むモンリヴォーの変化が、以下のように表現されている。「彼は、はじめて、人生というものを感情で理解した。いままでの彼は、ただ、人力の度を越すような行動と、兵隊のような、ほとんど肉体的な献身とで、生きてきたのにすぎなかった」
この映画が強調するのは、そうした変化であり、特に夫人の変化が、映画的な表現によって実に鮮やかに描き出されている。注目しなければならないのは、モンリヴォーが夫人を拉致する前後の舞踏会だ。そこでは、男と女が頭で考えられた規則に従って、人形のように踊りつづける。だが、モンリヴォーの脅威を感じはじめている夫人は、人形に成り切れない。そして、拉致された彼女は、乱暴されることもなく自己の身体に目覚め、舞踏会に連れ戻されたときには、そこが別世界に変わっている。
プロローグで、修道院の鉄格子に隔てられたふたりは、すでに愛を知っている。かつて信仰すら駆け引きの道具に使っていた彼女は、愛するための身体を獲得したからこそ修道女にもなり得た。一方、モンリヴォーは、彼女の歌声に心をかき乱される男になっている。彼らはお互いに相手を再創造し、それが愛の発見に繋がっていくのだ。
これに対して、万田邦敏監督の『接吻』では、そんな愛の発見が衝撃すら覚えるドラマのなかに描き出される。一見ごく普通のOL・遠藤京子は、テレビカメラに向かって不敵な笑みを浮かべながら連行されていく殺人鬼・坂口秋生を目にした瞬間、恋に落ちる。自分たちが同類であることを直観するのだ。彼女の熱烈な手紙や差入れは、沈黙する坂口の心を動かし、ふたりは、死刑が確定したあとも面会できるように結婚する。だが、やがてその関係に破綻が生じる。 |