アンダー・ザ・スキン
Under the Skin  Under the Skin
(1997) on IMDb


1997年/イギリス/カラー/82分/ヴィスタ/ドルビーステレオ
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(初出:『アンダー・ザ・スキン』劇場用パンフレット)

 

 

アメリカナイズされた生活、
亡母の声、失われたイギリス

 

 現代のイギリス映画界は実に個性的な作品を次々と生みだし、大きな注目を集めているが、そうした作品の魅力を語る上で無視できないのが、イギリス社会の変貌だ。イギリスといえば、かつては「揺りかごから墓場まで」というスローガンが物語るように福祉を理想としてきたが、80年代に政権を担ったマーガレット・サッチャーは、財政を圧迫する福祉優先の政策から自由主義経済へと大胆な方向転換を断行した。

 サッチャリズムと呼ばれるこの大改革は、突き詰めれば国民ひとりひとりが国ではなく自分だけを頼りに生きていくことを意味していた。その結果、人々の競争意識が高まり、アメリカ的な消費社会が拡大し、経済は好転したが、同時に極端な上昇志向や拝金主義がはびこるようになり、富める者はもっと豊かになり、切り捨てられた弱者はもっと貧しくなってしまった。

 これは難しい話だと思われるかもしれないが、『トレインスポッティング』で幼なじみの仲間たちを裏切ってお金という“未来を選ぶ”主人公の姿はこのサッチャリズムの反映であり、『フル・モンティ』は、未来を選べなかった失業者がお金のためにストリッパーになる姿を通して、社会を風刺しつつ人間性を見詰め直していくところに感動がある。

 というように、現代のイギリス映画はサッチャリズム以降の社会をひねりのきいたドラマで描くところに面白さがあるが、最近公開される新作では、社会の現実をより日常的な視点でとらえ、ディテールがドラマを奥深いものにするような作品が目立っている。

 たとえば『ヴァージン・フライト』は、難病で余命いくばくもないヒロインと風変わりな中年男の絆を描いたありがちなヒューマン・ドラマのように見える。しかしディテールが物語るのは、現代社会では車椅子の難病患者も独力で自分の欲望を満たすしかないという現実であり、この映画の魅力は、願望を叶えるために皮肉にもお金に縛られていく男女が、最後に本当に求めているものを発見するところにある。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   カリーヌ・アドラー
Carine Adler
撮影 バリー・エイクロイド
Barry Ackroyd
編集 イヴァ・J・リンド
Iwa J.Lind
音楽 イオナ・セカッツ
Ilona Sekacz
 
◆キャスト◆
 
アイリス   サマンサ・モートン
Samantha Morton
ローズ クレア・ラッシュブルック
Claire Rushbrook
ママ リタ・トッシンハム
Rita Tushingham
トム スチュアート・タウンゼンド
Stuart Townsend
ヴロン クリスティーン・トレマルコ
Christine Tremarco
ゲアリー マシュー・デラメェア
Matthew Delamere
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(配給:ケイブルホーグ)
 
 
 

 それから『トゥエンティフォー・セブン』は、サッチャリズムに踊らされて失業した中年男が、田舎町のなかで希望もなく争う若者たちのためにボクシング・ジムを開き、かつてのコミュニティの絆を取り戻そうとする物語だが、やはりディテールが素晴らしい。この映画では、卵や魚のフライの中身が怪しいというエピソードを通して、徹底的な合理化、大量生産システムによって安いが粗悪な食品が出回り、貧しい者は毎日それを食べるしかない現実が描かれ、結果的には日常に浸透したそんな厳しい現実が主人公の夢を打ち砕くことになる。

 そして、この『アンダー・ザ・スキン』もまた、まず何よりも日常のディテールが際立つ作品である。この映画は、一見すると女性監督ならではの視点で女性特有の心理を描くドラマで、社会状況とはあまり縁のない作品のように見えるが、決して無関係ではない。

 筆者がまず注目したいのは、監督カリーヌ・アドラーの興味深いコメントである。彼女は、映画の舞台となる街、人物の階級や地位などを意識的に特定しなかったという。その狙いは人物の感情的な部分に焦点を絞ることのようだが、こうした表現は明らかに社会の変化と結びついているように思える。

 サッチャリズム以降の社会のなかではとにかくお金を持っているかどうかが人の立場を決める基準となり、階級や地位にはあまり意味がなくなりつつあるし、急激な消費社会の拡大によって生活環境も均質化し、地方色や伝統が薄れようとしている。この映画は、舞台や人物の階級、地位などを特定しないことによってそんな時代の空気を見事にとらえ、そのことが無意識のうちにヒロインを追いつめていく。

 この映画ではドラマの進展とともにヒロインと姉の確執が次第に深まっていくが、ふたりの日常のコントラストは実に印象的だ。姉はこの消費社会のなかで、アメリカナイズされた生活のなかに幸福を見出そうとする。一方ヒロインは、遺失物保管所で働いている。そこは消費社会のなかでほとんど使い捨てとなった物で溢れている。そして彼女は、まるで自分も遺失物になったかのように、世界との接点を何も見出すことができないのだ。

 そんなヒロインが、山のような遺失物の携帯電話のひとつから亡き母親の声を聞く幻想を見る場面には、深い喪失感が刻み込まれ、母親の存在がかつてのイギリスを象徴しているようにも思えてくる。しかし、姉もまた心の底ではヒロインと同じものを求めている。だからこそ母親の指輪を隠し持っているのだ。

 対照的に見えながら、実は同じように拠り所を失っている姉妹が、急激に変貌し、利己的になっていく社会のなかで、過去との繋がりを取り戻し、未来へのささやかな希望を見出すドラマにはとても深い意味が秘められている。


(upload:2010/08/06)
 
 
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