それから『トゥエンティフォー・セブン』は、サッチャリズムに踊らされて失業した中年男が、田舎町のなかで希望もなく争う若者たちのためにボクシング・ジムを開き、かつてのコミュニティの絆を取り戻そうとする物語だが、やはりディテールが素晴らしい。この映画では、卵や魚のフライの中身が怪しいというエピソードを通して、徹底的な合理化、大量生産システムによって安いが粗悪な食品が出回り、貧しい者は毎日それを食べるしかない現実が描かれ、結果的には日常に浸透したそんな厳しい現実が主人公の夢を打ち砕くことになる。
そして、この『アンダー・ザ・スキン』もまた、まず何よりも日常のディテールが際立つ作品である。この映画は、一見すると女性監督ならではの視点で女性特有の心理を描くドラマで、社会状況とはあまり縁のない作品のように見えるが、決して無関係ではない。
筆者がまず注目したいのは、監督カリーヌ・アドラーの興味深いコメントである。彼女は、映画の舞台となる街、人物の階級や地位などを意識的に特定しなかったという。その狙いは人物の感情的な部分に焦点を絞ることのようだが、こうした表現は明らかに社会の変化と結びついているように思える。
サッチャリズム以降の社会のなかではとにかくお金を持っているかどうかが人の立場を決める基準となり、階級や地位にはあまり意味がなくなりつつあるし、急激な消費社会の拡大によって生活環境も均質化し、地方色や伝統が薄れようとしている。この映画は、舞台や人物の階級、地位などを特定しないことによってそんな時代の空気を見事にとらえ、そのことが無意識のうちにヒロインを追いつめていく。
この映画ではドラマの進展とともにヒロインと姉の確執が次第に深まっていくが、ふたりの日常のコントラストは実に印象的だ。姉はこの消費社会のなかで、アメリカナイズされた生活のなかに幸福を見出そうとする。一方ヒロインは、遺失物保管所で働いている。そこは消費社会のなかでほとんど使い捨てとなった物で溢れている。そして彼女は、まるで自分も遺失物になったかのように、世界との接点を何も見出すことができないのだ。
そんなヒロインが、山のような遺失物の携帯電話のひとつから亡き母親の声を聞く幻想を見る場面には、深い喪失感が刻み込まれ、母親の存在がかつてのイギリスを象徴しているようにも思えてくる。しかし、姉もまた心の底ではヒロインと同じものを求めている。だからこそ母親の指輪を隠し持っているのだ。
対照的に見えながら、実は同じように拠り所を失っている姉妹が、急激に変貌し、利己的になっていく社会のなかで、過去との繋がりを取り戻し、未来へのささやかな希望を見出すドラマにはとても深い意味が秘められている。 |