アメリカではスティーヴン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』につづいてテレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』が公開されたことから、第二次大戦を題材にした二本の映画がさかんに比較され、それが後者の観念的な難解さを強調する結果を招いている。
70年代に『地獄の逃避行』と『天国の日々』で注目されたマリックが20年ぶりに監督したこの新作は、戦争映画として見るならかなり異色の作品であり、この比較には根本的に無理があると思うが、強いてその違いを言葉にするなら、前者のドラマがあくまで生と死に支配されているのに対して、後者は個と無を見つめているといえる。
そしてこの個と無という主題について、逆にこの『シン・レッド・ライン』とぜひ対置してみたくなるのが、3時間29分のディレクターズ・カットとして甦ったドイツ映画『U・ボート』だ。
81年のオリジナルは日本でも大きな話題になったので、あの凄まじい緊迫感で描きだされる乗組員たちの苛酷な体験や予想もしない悲劇的な結末が印象に残っている方も多いかと思う。ディレクターズ・カットでは、乗組員個々の人物像や心理、人間関係などが詳細に描き込まれ、監督の意図がより鮮明に伝わってくる作品になっている。
この映画では、乗組員たちのほとんどが敵の姿すら見ることがない。彼らは、陸上の戦闘のように単独で手柄を立てることもできず、感覚をとぎすまして身を守ることもできず、狭い空間のなかでU・ボートの一部と化し、海という自然と戦いつづける。そして激しい攻撃のために機能を失ったUボートが水深280メートルの海底に沈み、水圧でボルトが吹き飛び、酸素が残り少なくなっていくとき、この集団からは個人という境界が完全に消失し、あたかもひとつの存在であるかのような感覚が浮かび上がってくる。
そんな彼らは最後に個人に立ち返り、初めて目の当たりにする敵を前に無力さをさらけ出す。アクション主体のオリジナルではそれはあくまで生と死をめぐるドラマの帰結だったが、この作品ではこの結末があらためてひとつの魂を共有する特殊な感覚を際立たせることになり、観客は生と死ではなく、個と無について考えざるをえなくなる。
『シン・レッド・ライン』では、42年にガナルカナル島に上陸したアメリカ陸軍のC中隊が、日本軍が防備を固める丘陵を占領するために死闘を繰り広げるが、そんなドラマからもひとつの魂を共有する感覚が浮かび上がる。マリックの作品にはモノローグを多用する特徴があるが、この映画の冒頭には「人間はひとつの大きな魂を共有しているのか」とか「いくつもの顔を持つ一人の男なのか」という言葉があり、戦場が混乱するに従って兵士たちのモノローグはそれが誰の言葉なのかすら判然としなくなる。
さらにドラマのなかに内面的な世界を切り開いていくウィットとベルというふたりの二等兵には、故意に顔立ちが似た俳優が起用され、彼らの判別が難しい瞬間も多々ある。マリックは、このひとつの魂を暗示するモノローグや美しく冷酷な自然の映像を通して、表層的な戦争のドラマとともにもうひとつの戦いを描きだしていく。
彼の以前の作品では、社会のなかで存在を否定されることから逃れようとする主人公が、善悪や生死の境界も定かではない空間へと踏みだし、自然のなかに溶け込んでいく姿を通して独自の観点から人間の本性が浮き彫りにされてきた。新作ではその世界がさらに別な方向へと導かれる。 |