イタリア人作家アレッサンドロ・バリッコの小説『絹』をフランソワ・ジラールが映画化した『シルク』は、19世紀のフランスと日本を主な舞台として物語が展開していく。戦地から帰還した若者エルヴェは、美しい教師エレーヌと出会い、やがて結婚する。そんな時、村を支える産業に打撃を与える蚕の疫病が発生し、エルヴェは、世界で最も美しい絹糸を吐く蚕を求めて、遥か極東の日本へと旅立つ。彼はその未知の国で、美しい少女に出会う。そして、彼女に魅了され、危険も顧みず、幕末の混乱のなかにある日本への旅を重ねていく。
この映画に描かれる日本は、必ずしも現実の日本ではない。原作の巻頭には、日本の読者に向けたバリッコのメッセージがあり、彼はこのように書いている。「ここに物語られた日本とは、歴史的現実よりも西洋人の空想の方にはるかにしっくりなじむ日本である。(中略)そこには、現実の日本の断片と、純然たる空想のかけら――19世紀の西洋人がそうした遥けき未知の世界を描き出そうとした奇譚の末裔――とが交錯している」
バリッコが描く日本は空想の産物だが、それは単純な空想ではない。小説のなかで繰り返される「1861年、フロベールは『サランボー』を執筆中だった」という文章は、その空想のヒントになる。フローベールの作品は、オリエンタリズムと密接な関わりがあり、エドワード・W・サイードの『オリエンタリズム』でも、ページを割いて掘り下げられている。オリエントを訪れた19世紀の旅行者のひとりである彼は、エジプトの有名な踊り子で、娼婦でもあったクチュク・ハネムと出会ったことから、広範な影響を与えることになるオリエント女性像を創造する。フローベールと彼女の関係は、以下のように分析されている。
「そのエジプト人娼婦はみずからを語ることによって、自分の感情や容姿や履歴を紹介したのではなかった。彼、フローベールがその女性のかわりに語って、その女性を紹介=表象したのである。フローベールは、外国人で、相当に金持ちで、男性であったが、これらの条件は、支配という歴史的事実にほかならない」
バリッコがフローベール作品のオリエンタリズムを意識していたことは間違いないだろう。そして、この映画では、そんな男と女の関係が、エルヴェのナレーションによって表現されていると見ることもできる。原作では、バリッコが物語の語り手であり、空想の原動力となっていたが、映画では、バリッコではなく、外国人で、蚕の取引で金持ちになり、男性であるエルヴェが、口を開くことのない少女を表象することになるからだ。
しかし、背景は19世紀であっても、これは現代の小説とその映画化であり、それだけで物語は終わらない。男と女の力関係は、最後に見事に覆される。その鍵を握るのは、妻のエレーヌだ。
より幻想譚に近い原作では、彼女が最後に前面にでるだけでも、存在感が希薄になることはなかった。しかし、物語が映像でリアルに表現される映画では、そうはいかない。だから、彼女の人物像はより明確にされている。夫に従属する貞淑な妻のように見えたエレーヌ。そんな彼女の心が明らかになる時、エルヴェの世界は鮮やかに塗り替えられることになるのだ。
そして、時代や舞台はまったく異なるが、『シルク』と対比してみると興味深いのが、アイリーン・チャン(張愛玲)の短編「色・戒」をアン・リーが映画化した『ラスト、コーション』だ。この映画の背景にも東洋と西洋があり、単に東洋の側から物語が綴られていくのではなく、そうした要素が男と女の関係に集約され、アイデンティティが掘り下げられていく。
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