西洋と東洋の狭間で男と女はなにを見るのか
――『シルク』と『ラスト、コーション』をめぐって


シルク/Silk―――――――――――――― 2007年/日本=カナダ=フランス=イタリア=イギリス/カラー/109分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
ラスト、コーション/色・戒/ Lust, Caution―― 2007年/アメリカ=中国=台湾=香港/カラー/158分/ヴィスタ/ドルビーデジタルDTS
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(初出:「Cut」2008年2月号 映画の境界線78)


 

 イタリア人作家アレッサンドロ・バリッコの小説『絹』をフランソワ・ジラールが映画化した『シルク』は、19世紀のフランスと日本を主な舞台として物語が展開していく。戦地から帰還した若者エルヴェは、美しい教師エレーヌと出会い、やがて結婚する。そんな時、村を支える産業に打撃を与える蚕の疫病が発生し、エルヴェは、世界で最も美しい絹糸を吐く蚕を求めて、遥か極東の日本へと旅立つ。彼はその未知の国で、美しい少女に出会う。そして、彼女に魅了され、危険も顧みず、幕末の混乱のなかにある日本への旅を重ねていく。

 この映画に描かれる日本は、必ずしも現実の日本ではない。原作の巻頭には、日本の読者に向けたバリッコのメッセージがあり、彼はこのように書いている。「ここに物語られた日本とは、歴史的現実よりも西洋人の空想の方にはるかにしっくりなじむ日本である。(中略)そこには、現実の日本の断片と、純然たる空想のかけら――19世紀の西洋人がそうした遥けき未知の世界を描き出そうとした奇譚の末裔――とが交錯している

 バリッコが描く日本は空想の産物だが、それは単純な空想ではない。小説のなかで繰り返される「1861年、フロベールは『サランボー』を執筆中だった」という文章は、その空想のヒントになる。フローベールの作品は、オリエンタリズムと密接な関わりがあり、エドワード・W・サイードの『オリエンタリズム』でも、ページを割いて掘り下げられている。オリエントを訪れた19世紀の旅行者のひとりである彼は、エジプトの有名な踊り子で、娼婦でもあったクチュク・ハネムと出会ったことから、広範な影響を与えることになるオリエント女性像を創造する。フローベールと彼女の関係は、以下のように分析されている。

そのエジプト人娼婦はみずからを語ることによって、自分の感情や容姿や履歴を紹介したのではなかった。彼、フローベールがその女性のかわりに語って、その女性を紹介=表象したのである。フローベールは、外国人で、相当に金持ちで、男性であったが、これらの条件は、支配という歴史的事実にほかならない

 バリッコがフローベール作品のオリエンタリズムを意識していたことは間違いないだろう。そして、この映画では、そんな男と女の関係が、エルヴェのナレーションによって表現されていると見ることもできる。原作では、バリッコが物語の語り手であり、空想の原動力となっていたが、映画では、バリッコではなく、外国人で、蚕の取引で金持ちになり、男性であるエルヴェが、口を開くことのない少女を表象することになるからだ。

 しかし、背景は19世紀であっても、これは現代の小説とその映画化であり、それだけで物語は終わらない。男と女の力関係は、最後に見事に覆される。その鍵を握るのは、妻のエレーヌだ。

 より幻想譚に近い原作では、彼女が最後に前面にでるだけでも、存在感が希薄になることはなかった。しかし、物語が映像でリアルに表現される映画では、そうはいかない。だから、彼女の人物像はより明確にされている。夫に従属する貞淑な妻のように見えたエレーヌ。そんな彼女の心が明らかになる時、エルヴェの世界は鮮やかに塗り替えられることになるのだ。

 そして、時代や舞台はまったく異なるが、『シルク』と対比してみると興味深いのが、アイリーン・チャン(張愛玲)の短編「色・戒」をアン・リーが映画化した『ラスト、コーション』だ。この映画の背景にも東洋と西洋があり、単に東洋の側から物語が綴られていくのではなく、そうした要素が男と女の関係に集約され、アイデンティティが掘り下げられていく。


―シルク―

 Silk
(2007) on IMDb


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   フランソワ・ジラール
Francois Girard
脚本 マイケル・ゴールディング
Michael Golding
原作 アレッサンドロ・バリッコ
Alessandro Baricco
撮影 アラン・ドスティエ
Alain Dostie
編集 ピア・ディ・キアウラ
Pia Di Ciaula
音楽 坂本龍一
Ryuichi Sakamoto

◆キャスト◆

エルヴェ   マイケル・ピット
Michael Pitt
エレーヌ キーラ・ナイトレイ
Keira Knightley
バルダビュー アルフレッド・モリーナ
Alfred Molina
原十兵衛 役所広司
Koji Yakusho
マダム・ブランシュ 中谷美紀
Miki Nakatani
右門 國村隼
Hayato Kunimura
少女 芦名星
Sei Ashina
(配給:アスミック・エース)
 
 

―ラスト、コーション―

 Se, jie
(2007) on IMDb


◆スタッフ◆
 
監督   アン・リー
Ang Lee
脚本 ワン・フイリン、ジェームズ・シェイマス
Wang Hui-Ling, James Schamus
原作 アイリーン・チャン
Eileen Chang
撮影 ロドリゴ・プリエト
Rodrigo Prieto
編集 ティム・スクワイアズ
Tim Squyres
音楽 アレクサンドル・デプラ
Alexandre Desplat

◆キャスト◆

イー   トニー・レオン
Tony Leung
ワン/マイ夫人 タン・ウェイ
Tang Wei
クァン・ユイミン ワン・リーホン
Wang Lee-Hom
イー夫人 ジョアン・チェン
Joan Chen
ウー トゥオ・トォンホァ
Tou Chung Hua
(配給:ワイズポリシー)
 

 1942年、日本占領下の上海で、抗日運動に身を投じ、女スパイとなったワン・チアチーは、傀儡政権の特務機関で実権を握るイーに接近し、暗殺の機会をうかがう。しかし、危険な逢瀬を重ねるうちに、彼らはお互いに惹かれあい、暴力的なまでに激しく求めあうようになる。

 チャンの作品では、様々なかたちでアイデンティティの危機が描かれる。この映画に再現される40年代の上海は、そのアイデンティティの危機と密接に結びついている。40年代の上海とチャンの文学をテーマにした血}健の『伝奇文学と流言人生』では、上海が以下のように記述されている。

かつて東方のバビロンと誇った国際都市上海、その心臓部分に横に帯状に広がる特区――租界は、1941年12月8日太平洋戦争の勃発と同時に、日本軍に占領されていた。上海にいる外国人は史上最高の15万人にのぼり、そのうち日本人が10万を占め、他の5万外国人の国籍は50ヵ国近くに達した

 さらに、当時の上海市長のこんな言葉も引用されている。「上海で私達は東洋の真の文化は見出せず、西洋の真の文化も見出せない。上海が重んじるのはいかに買い占めるか、いかに投機するかである。中国の文化人は足を置く場所もない

 この映画のふたりの主人公は、そんな混沌とした世界を生きている。彼らは、それぞれに政治的な使命や権力によって非人間化され、孤立している。ワンは、香港大学の演劇部に入部したことがきっかけで愛国思想に感化され、スパイとなった。そんな彼女は、使命のために「マイ夫人」という役を演じつづけなければならない。イーは、自分以外にはなにも信じられず、心を固く閉ざしている。

 アン・リーの前作『ブロークバック・マウンテン』の主人公たちは、保守的な社会によってその存在を規定され、自分を演じつづけなければならなかった。この映画の中心にいるワンは、外部の力によってさらに厳しく規定されているが、いずれにしても彼女が生きる混沌とした世界には、アイデンティティの拠り所となるものなど端から存在しないに等しい。むしろ彼女にとっては、規定されることが出口となる。彼女は、演じることによって初めて自分を見出し、悲劇的な運命をたどると同時に、女性として解放されていく。そんな彼女の在り方には、どこか『シルク』のエレーヌに通じるものがある。

 
《参照/引用文献》
『絹』アレッサンドロ・バリッコ ●
鈴木昭裕訳(白水社、1997年)
『オリエンタリズム』(上・下)エドワード・W・サイード ●
板垣雄三・杉田英明監修 今沢紀子訳(平凡社、1993年)
『伝奇文学と流言人生』血}健●
(御茶の水書房、2002年)

(upload:2009/06/04)
 
 
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