この映画では、そうした様々な勢力をめぐる駆け引きや権力争いが鮮やかに描きだされると同時に、権力のメカニズムが、女王に近いロバートとウォルシンガムというふたりの人物の対照的な運命に象徴的に収斂されていく。女王の幼なじみで、愛人でもあるロバートは、女としての彼女を愛し、表立った繋がりを持っているが、それゆえにやがて政敵につけ込まれ、陰謀に加担することを余儀なくされていく。一方、フランスから帰国し、女王の護衛にあたるウォルシンガムは、最初は外様的な立場に置かれているように見えるが、陰で女王の信任を得るようになり、政敵を排除するために暗躍し、"ヴァージン・クイーン"という揺るぎない権力の誕生に大きく貢献することになるのである。
これに対して、新作の『サハラに舞う羽根』は、友情と愛を軸とした物語であり、前の二作とは趣を異にする作品のように見えるが、そんな物語の流れのなかでは、植民地支配を進める帝国主義という権力の実態が、巧みに浮き彫りにされていく。
この映画でまず何よりも印象的なのは、導入部のイギリスを舞台としたドラマとスーダンのドラマを支配する空間のコントラストである。そこには、『女盗賊プーラン』と『エリザベス』の経験が生かされている。『女盗賊プーラン』では、水平方向に広がる荒れ果てた大地が、神出鬼没の義賊プーランの活動の拠点となっていた。一方、『エリザベス』では、宮殿や教会などの建造物の高さに権力が象徴されていた。この映画には、その両方の要素が盛り込まれている。イギリスのドラマで最も際立っているのは、宮殿での舞踏会である。そこでは、たとえば、ハリーとエスネが回廊の巨大な石柱に寄りかかって言葉を交わす場面のように、建造物の高さが威圧感を漂わせている。一方、スーダンでは、どこまでもつづく砂漠の光景を通して、水平方向の広がりが強調される。
カプール監督がこのコントラストを強く意識していることは、その両方のドラマに角陣という陣形が出てくることで明確になる。宮殿の舞踏会で、士官たちはハリーとエスネを祝福するために角陣を組む。そして、スーダンの砂漠では、攻めてくる敵を迎え撃つために角陣を組む。このふたつの角陣は、彼らの理想と現実を表している。舞踏会で、高さを強調する空間のなかにある角陣は、強大な権力の下に置かれ、若者たちは祖国と女王のために戦う使命を信じている。しかし、水平方向に広がる砂漠の角陣では、個々の若者たちの表情に、恐怖と疑問が浮かび上がる。彼らは、丸腰の敵にも一斉射撃を加え、角陣を守るために、自分たちの銃弾でキャルストンの命も奪ってしまう。そして、角陣が敵軍に蹴散らされるとき、彼らの理想も崩れ去る。
さらにカプール監督は、ハリーという存在を通して、まったく異なる立場からこの現実をとらえてみせる。彼の行動は、友情や白い羽根に起因するものだが、舞踏会の角陣ではその中心にいたにもかかわらず、自らの意思でその外に出た彼は、現実を個人の目で見つめる証人となるのだ。砂漠で彼の案内人となる奴隷商人は、現地人をキリスト教で教化することはできないが、金なら自由にできるとうそぶく。しかし、娼婦たちは金に屈服するどころか、反撃に転じ、奴隷商人の命を奪う。そして、案内人を失い、野垂死の寸前まで追い詰められたハリーは、アブーに救われる。
このハリーとアブーの関係は、『女盗賊プーラン』におけるプーランとヴィクラムのそれに通じるものがある。アラブ人に身をやつしたハリーも、奴隷階級出身のアブーも、ともに孤立した存在である。しかも、ヴィクラムがプーランを女神とみなしたように、アブーも、厳しい試練を乗り越えようとするハリーを神がつかわした男だと信じる。そんな彼らは、ハリーがマフディー軍に引き込まれ、危機を知らせるために伝令に走ったアブーが、英国軍にスパイだと疑われるというさらなる孤立に追いやられることで、権力とは無縁の個と個として、固い友情で結ばれていく。東洋と西洋の間を往復するような生活を送るカプール監督が、この映画のなかで最も力を込めて描いているのは、西洋と東洋という境界を越えたこのハリーとアブーの友情であるように思えてならない。この映画が、砂漠を行くアブーをとらえたショットで終わるのが何とも印象的である。
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