サハラに舞う羽根
The Four Feathers  The Four Feathers
(2002) on IMDb


2002年/アメリカ=イギリス/カラー/132分/シネスコ/ドルビーデジタル
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(初出:『サハラに舞う羽根』劇場用パンフレット)

 

 

権力のメカニズム、そして西洋と東洋の境界を越える友情

 

 インド映画界で活動していたシェカール・カプール監督は、カンヌ映画祭に出品された3作目の『女盗賊プーラン』の成功で、世界的な注目を集めるようになった。下位のカーストゆえに虐げられながらも、逆境に屈することなく義賊の女王として名を馳せ、民衆の英雄となる実在の闘士プーラン・レヴィ。彼女の半生を描くこの映画には、あまりにも苛酷な社会の現実、彼女がたどる数奇な運命、激しいアクションなど、様々な見所があるが、筆者が最も印象的だったのは、プーランと彼女を取り巻く人間や社会の関係から浮かび上がる権力のメカニズムだ。

 プーランは確かに不屈の闘志の持ち主だが、独力で英雄になるわけではない。婚家を追われ、村八分にされ、盗賊に拉致されて慰み者にされる彼女は、盗賊の首領に反旗を翻したヴィクラムに救われる。プーランと同じマッラという下位のカーストである彼は、下層の人々に味方する義賊の首領となり、プーランを鍛え、義賊の女神というシンボルにする。ところが、そんなヴィクラムの姿勢は、タークルという上位のカーストゆえに当然のように下位の盗賊を仕切る首領の反感を買う。タークルの首領はヴィクラムを殺害し、人々の前でプーランを徹底的に辱める。復讐に燃えるプーランは、彼女を晒し者にしたタークルの男たちを皆殺しにしてしまい、ついに警察や軍隊が動きだす。しかし、選挙を控えている政治家には、下層の民衆の英雄となった彼女を抹殺することはできない。そこで、彼女の投降を演出し、民衆を納得させる。

 プーランの数奇な運命の背後には、カーストや政治的な利益をめぐる権力のメカニズムが働き、彼女自身の闘争と相まって、彼女を奈落の底に突き落としもすれば、英雄にもする。カプール監督は、個人に作用するそんな力を見据えることによって、人間を掘り下げ、独自のダイナミズムを生みだすのである。

 カプールが国際的な舞台に踊り出て、監督の地位を不動のものにした『エリザベス』にも、同様の視点がある。エリザベスもまた数奇な運命をたどる。映画の冒頭では、新教派の反乱の共犯者とみなされ、ロンドン塔に送られるが、運命は彼女に味方し、25歳で女王に即位する。だが国威は衰えている上に、旧教と新教の対立が激化している。スペイン国王フェリペやフランスのアンジュー公は結婚を迫り、旧教派のノーフォーク卿は陰謀を企て、スコットランドは国境を脅かす。


◆スタッフ◆

監督   シェカール・カプール
Shekhar Kapur
脚本 マイケル・シファー、ホセイン・アミニ
Michael Schiffer, Hossein Amini
撮影監督 ロバート・リチャードソン
Robert Richardson
編集 スティーヴン・ローゼンブラム
Steven Rosenblum
音楽 ジェームズ・ホーナー
James Horner

◆キャスト◆

ハリー・フェバーシャム   ヒース・レジャー
Heath Ledger
ジャック・デュランス ウェス・ベントリー
Wes Bentley
エスネ ケイト・ハドソン
Kate Hudson
アブー・ファトマ ジャイモン・ハンスゥ
Djimon Housou
トレンチ マイケル・シーン
Michael Sheen
ウィロビー ルパート・ペンリー=ジョーンズ
Rupert Penry-Jones
キャスルトン クリス・マーシャル
Kris Marshall
アクオル アレック・ウェック
Alek Wek
フェバーシャム将軍 ティム・ピゴット=スミス
Tim Pigott-Smith
(配給:アミューズピクチャーズ)
 


 この映画では、そうした様々な勢力をめぐる駆け引きや権力争いが鮮やかに描きだされると同時に、権力のメカニズムが、女王に近いロバートとウォルシンガムというふたりの人物の対照的な運命に象徴的に収斂されていく。女王の幼なじみで、愛人でもあるロバートは、女としての彼女を愛し、表立った繋がりを持っているが、それゆえにやがて政敵につけ込まれ、陰謀に加担することを余儀なくされていく。一方、フランスから帰国し、女王の護衛にあたるウォルシンガムは、最初は外様的な立場に置かれているように見えるが、陰で女王の信任を得るようになり、政敵を排除するために暗躍し、"ヴァージン・クイーン"という揺るぎない権力の誕生に大きく貢献することになるのである。

 これに対して、新作の『サハラに舞う羽根』は、友情と愛を軸とした物語であり、前の二作とは趣を異にする作品のように見えるが、そんな物語の流れのなかでは、植民地支配を進める帝国主義という権力の実態が、巧みに浮き彫りにされていく。

 この映画でまず何よりも印象的なのは、導入部のイギリスを舞台としたドラマとスーダンのドラマを支配する空間のコントラストである。そこには、『女盗賊プーラン』と『エリザベス』の経験が生かされている。『女盗賊プーラン』では、水平方向に広がる荒れ果てた大地が、神出鬼没の義賊プーランの活動の拠点となっていた。一方、『エリザベス』では、宮殿や教会などの建造物の高さに権力が象徴されていた。この映画には、その両方の要素が盛り込まれている。イギリスのドラマで最も際立っているのは、宮殿での舞踏会である。そこでは、たとえば、ハリーとエスネが回廊の巨大な石柱に寄りかかって言葉を交わす場面のように、建造物の高さが威圧感を漂わせている。一方、スーダンでは、どこまでもつづく砂漠の光景を通して、水平方向の広がりが強調される。

 カプール監督がこのコントラストを強く意識していることは、その両方のドラマに角陣という陣形が出てくることで明確になる。宮殿の舞踏会で、士官たちはハリーとエスネを祝福するために角陣を組む。そして、スーダンの砂漠では、攻めてくる敵を迎え撃つために角陣を組む。このふたつの角陣は、彼らの理想と現実を表している。舞踏会で、高さを強調する空間のなかにある角陣は、強大な権力の下に置かれ、若者たちは祖国と女王のために戦う使命を信じている。しかし、水平方向に広がる砂漠の角陣では、個々の若者たちの表情に、恐怖と疑問が浮かび上がる。彼らは、丸腰の敵にも一斉射撃を加え、角陣を守るために、自分たちの銃弾でキャルストンの命も奪ってしまう。そして、角陣が敵軍に蹴散らされるとき、彼らの理想も崩れ去る。

 さらにカプール監督は、ハリーという存在を通して、まったく異なる立場からこの現実をとらえてみせる。彼の行動は、友情や白い羽根に起因するものだが、舞踏会の角陣ではその中心にいたにもかかわらず、自らの意思でその外に出た彼は、現実を個人の目で見つめる証人となるのだ。砂漠で彼の案内人となる奴隷商人は、現地人をキリスト教で教化することはできないが、金なら自由にできるとうそぶく。しかし、娼婦たちは金に屈服するどころか、反撃に転じ、奴隷商人の命を奪う。そして、案内人を失い、野垂死の寸前まで追い詰められたハリーは、アブーに救われる。

 このハリーとアブーの関係は、『女盗賊プーラン』におけるプーランとヴィクラムのそれに通じるものがある。アラブ人に身をやつしたハリーも、奴隷階級出身のアブーも、ともに孤立した存在である。しかも、ヴィクラムがプーランを女神とみなしたように、アブーも、厳しい試練を乗り越えようとするハリーを神がつかわした男だと信じる。そんな彼らは、ハリーがマフディー軍に引き込まれ、危機を知らせるために伝令に走ったアブーが、英国軍にスパイだと疑われるというさらなる孤立に追いやられることで、権力とは無縁の個と個として、固い友情で結ばれていく。東洋と西洋の間を往復するような生活を送るカプール監督が、この映画のなかで最も力を込めて描いているのは、西洋と東洋という境界を越えたこのハリーとアブーの友情であるように思えてならない。この映画が、砂漠を行くアブーをとらえたショットで終わるのが何とも印象的である。


(upload:2004/03/06)
 
 
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