アゼルの隣人の少女マリカは、出てゆくことを夢見ながら、小エビ工場の寒さに勇敢に立ち向かい、身体を蝕まれていく。アゼルの従兄弟のヌレディエンヌは、密入国の仲介人の手引きでボロ船に乗り込むが、スペインまであとわずかのところで溺死する。ベルギーに移住した叔父からエジプト人の「宗教の専門家」を紹介されたムハンマド=ラルビは、問題を起こしてパキスタンの訓練キャンプに送られてしまう。
筆者はベン・ジェルーンの小説をすべて読んでいるわけではないが、『出てゆく』の表現はこれまでの作品とは違う。口承文学の伝統を継承する彼の世界では、独特の語りのなかで、夢と現実、過去と現在、生と死などの境界が消え去っていく。たとえば、『砂の子ども』では、物語の語り部であった講釈師が途中で姿を消し、聞き手だった人物たちが物語を引き継ぎ、さらに時の彼方から現れた盲目の老人がそれを引き継いでいく。『出てゆく』の物語は、より現実に根ざしているといえる。
本書のあとがきには、ベン・ジェルーンのこんな発言が引用されている。「『出てゆく』にはいくつもの意味があります。まず、物理的に出てゆくこと、次に自分であることと性から離れること、そして自分の属する宇宙から離れることです......これは大きな痛みであり、身を引き裂かれるも同じで、心に傷を残します」
この「自分の属する宇宙」は、「物語」に置き換えることもできるだろう。小説の第一章のタイトルである「トゥシア」は、先述したような登場人物ではないし、人間でもない。タンジェのカフェで若者たちの夢の結末を見守る男たちが、トゥシアと名付けた女、あるいは蜘蛛は、人肉をむさぼる存在でもあり、若者たちに忠告をもたらす情け深い存在にもなる。
小説の半ばには、ベン・ジェルーンの過去の作品『気狂いモハ、賢人モハ』に登場したトリックスターのような存在であるモハが登場し、ヨーロッパ人に差別される主人公たちに対して、主人公たちとアフリカ人というもうひとつの視点を提示する。「わしら白いアラブ、つまりくすんだ、浅黒い、栗色の肌をしているわしらは、優越感を抱いている。無意味な優越感だ。わしらは彼らにようやく軽蔑できる相手を見つけたと思い込んでいる。わしらはだれかを差別する必要があった。すでに貧乏人を虐待していた。だが貧乏人が黒い肌をしたアフリカ人だともう有頂天だ。彼らを見下ろすのは許されると信じて」
そして、最終章では、主人公たちとともに、トゥシアやモハ、そしてフローベールと名乗るカメルーン人やドン・キホーテ、サンチョ・パンサが船に乗り込む。この船は、海に浮かぶ虚構=物語でもある。つまりこの小説には、出てゆくことで物語を失った主人公たちが、再び物語を取り戻すために旅立つという流れがある。
このドン・キホーテやフローベールの登場はなかなか興味深い。どちらもベン・ジェルーンの世界と無縁ではない。『ドン・キホーテ』の物語には、まずモーロ人の歴史家がアラビア語で綴った原典があり、それをセルバンテスが編纂するという設定が埋め込まれている。
一方、フローベールに関しては、エドワード・W・サイードの『オリエンタリズム』の記述を思い出させる。フローベールが東方旅行で経験した至福の瞬間は、エジプトの有名な踊り子で、娼婦でもあるクチュク・ハネムと過ごしたひとときだった。サイードは、そのクチュクと、彼女が住まうオリエントの世界が、フローベールに自己の性的無能力をどれほど痛切に感じさせたかを浮き彫りにする。
スペインに渡ったアゼルにとって最も大きなダメージになるのは、性的不能に陥ることだが、そんなエピソードは、フローベールのオリエント体験の裏返しになっているようにも思える。 |