80年代後半、ニュージャージーのサバービアで起こった十代の若者たちの集団自殺をきっかけに、サバービアに暮らす十代に取材して書かれた『Teenage Wasteland』というノンフィクションがある。
そのなかで著者のドナ・ゲインズは、こんなことを書いている。60〜70年代であれば町から夢の路上に出て、自分探しの旅をすることができたが、いまではそんな夢は失われ、出口もないまま死角を求めて町をうろつくしかない。
社会が均質化するということは、夢の路上のような外部が失われることを意味する。外部は閉塞的な日常を異化し、現実を自覚的にとらえる視座を与えてくれる。そんな外部を喪失した時代に、どのように日常をとらえるのかは、映画にとってもひとつの重要な課題といえるだろう。
『クラム』で注目されたテリー・ツワイゴフ監督が、アメリカで人気のオルタナティブ・コミックを実写で映画化した『ゴーストワールド』は、まさにそんな課題を扱っている。
高校を卒業したばかりのヒロイン、イーニドは、閉塞的なサバービアで漠然と幸せそうな顔をして生きている人間が信じられない。時代遅れのパンクやサタニズムに興味を示す彼女は、ある悪戯がきっかけで超オタクな中年男シーモアと知り合い、奇妙な絆を築きあげていく。
ちなみに、イーニドに扮するソーラ・バーチは、『アメリカン・ビューティー』でも光っていたが、さらに個性が際立ち、クリスティナ・リッチを超えそうな輝きを放っている。
彼女とシーモアの出会いはあくまで偶然で、関係が劇的な発展を見せるわけでもない。しかし彼らの関係から浮かび上がる多様な価値観は確実に日常を異化する。
たとえば、シーモアがコレクションしている古いブルースのレコードだ。彼らの日常に流通しているブルースは、飲んで踊るための商業化されたダンス・ミュージックになっている。そんな日常のなかで孤立するイーニドには、本物のブルースが心に響く。
それからシーモアの部屋に埋もれていた昔のレストランのポスターにも注目しなければならない。そこには、ミンストレル・ショーを連想させる黒人の顔が描かれている。サバービアの日常では、ポリティカリー・コレクトネスに反するものは、事なかれ主義的に押し隠されている。だからこそイーニドは、黒人を戯画化したイメージに刺激を受ける。
つまりこの映画では、失われた外部の代わりに、日常のなかの意外なところから特別な時間と空間を切り拓くことで、異化効果が生まれる。
同時期に公開される邦画でも、渡辺一志監督の『19』や奥原浩志監督の『波』などに、そんな視点を垣間見ることができる。
『19』では平凡な大学生が、危なそうな3人組の男に無理やり車に引きずり込まれ、理由もなく行動をともにすることを余儀なくされる。当然大学生は何とか逃げ出そうとするが、次第に彼らに奇妙な絆を感じ始める。しかし、大学生の旅はあっけなく終わりを告げる。
『波』では西伊豆を舞台に、それぞれに計画や事情があり、別々の時間を過ごすはずだった4人の男女が、成り行きで時間を共有し、絆が生まれる。しかし彼らの関係は“波”の運動のように、次第に高まり、最後は砕けていく。そんな限定された特別な時間が、日常に対する異化効果を生んでいる。
しかし、実は『ゴーストワールド』には、もうひとつ、内部と外部をめぐる興味深い表現がある。映画には、廃止されたバス停で毎日バスを待ちつづける老人が登場する。もちろん、イーニドを除けば誰も彼を相手にしない。
ところがある日彼女は、そこにバスが止まり、老人が乗り込んでいくのを目にする。その瞬間、行き先も定かでないバスによってありえない外部が構築される。そして彼女は、閉塞した日常からありえない外部へと旅立っていく。
そこで筆者が注目したいのが、ムスタファ・アルトゥノクラル監督のトルコ映画『エレベーター』とキム・キドク監督の韓国映画『魚と寝る女』だ。この2本は、面白いことに描きだされる状況がよく似ている。
『エレベーター』では過激な報道で視聴率を稼いでいるニュース番組のキャスター、ジャン・シャルマンが、人気のないビルのエレベーターに監禁される。そして謎の美女が、この鉄格子の密室の外に現れ、彼を挑発し、誘惑し、飼育していく。
『魚と寝る女』の舞台は、湖に釣り客が泊まるための小屋が点々と浮かぶ釣り場だ。自殺するためにそこにやって来たヒョンシクは、釣り場を管理する女ヒジンに命を救われ、その女に愛憎を抱きながら、小屋という密室から逃げられなくなっていく。
但し、双方の男女の背景にあるものはまったく異なる。『エレベーター』は、『死刑台のエレベーター』と『トゥルーマン・ショー』を足して2で割ったような映画で、謎の美女には最初から明確な目的があり、エレベーターには隠しカメラが仕込まれている。
これに対して『魚と寝る女』の男女はあくまで偶然に出会い、彼らの欲望、愛情、嫉妬、怯え、孤独、そして生と死が、台詞を極力排し、肉体と、水や魚、釣り針を象徴的に使った表現で掘り下げられていく。
しかし、密室を中心とした世界を巧みに現代の縮図として描きながら、結末でそれを見事に異化するところに共通点があり、対比してみると実に興味深い。
『エレベーター』では、謎の美女の正体が明らかになるとき、現代のメディアをめぐる縮図がそこに現出する。そして彼女とキャスターの立場は、『トゥルーマン・ショー』における番組のプロデューサーとトゥルーマンのように、決して相容れないものとなる。ところが、そこで彼女は意外な行動をとり、男女はありえない外部へと消え去ることによって、メディアに翻弄される社会全体に揺さぶりをかける。
『魚と寝る女』も、釣り場である湖全体を、現代社会に潜む人間の欲望と抑圧の縮図として描きながら、男女が最後に、湖に浮かぶ小屋にモーターボートのエンジンを取り付け、ありえない外部へと消えていくことによって、その縮図を鮮やかに異化してみせるのだ。
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