ウィリアム・クラインは、1956年に発表した写真集『ニューヨーク』によって現代写真のパイオニアとされる写真家だが、同時に映画のフィールドでも独自の活動を展開してきた。
クラインの作品といえば、これまで日本では、共同監督作品である『ベトナムから遠く離れて』を除くと、最初の長編劇映画である『ポリー・マグーお前は誰だ』(65〜66年)が公開されただけという状況だったが、<クローズ・アップ>と題されたクラインの映画祭&写真展が開催されることで、クラインという作家の未知の部分にスポットが当てられることになった。
今回の映画祭で公開されるのは、劇映画、ドキュメンタリー、短編などあわせて12本。その題材は、ファッション、スポーツ、人種問題、音楽など多岐にわたっている。筆者はとりあえずそのうちの5本を観たが、クラインが選ぶ題材が広がれば広がるほど、彼の一貫した眼差しが際立ってくることに感動する、というよりも圧倒された。
その5本のなかで最初に紹介しておきたいのは、すでに日本公開されている彼の最初の長編劇映画『ポリー・マグーお前は誰だ?』だ。
この映画の舞台はパリで、主人公はファッション界で一躍注目を浴びたモデルのポリー・マグー。彼女はマスコミの注目の的となり、毎回話題の人物を紹介するテレビ番組のシリーズ<お前は誰だ>に取り上げられ、取材を受ける。番組のスタッフのアイデアで、彼女の古い写真なども持ちだされ、映像からは様々なポリー・マグー像が浮かび上がってくる(余談だが、彼女がニューヨークからパリに移ってファッション界で活躍するという設定は、クラインの経歴ともだぶっている)。
しかも、スタッフのひとりが彼女に惚れてしまうことで、テレビとは違う個人的なポリー・マグー像が浮かび、彼は彼女の実体をつかもうと精神分析まで始める。一方その頃、東欧の小国の王子が彼女に一目惚れし、ふたりのスパイが彼女の調査のためにパリに送り込まれ、ポリー・マグーへの眼差しは重層化されていく。
さらにクラインはこうしたドラマに、時代を反映した広告やニュース、ドキュメンタリー風の映像などを、消費社会に対するポップで毒気のある風刺として盛り込む。そんな錯綜するイメージのなかで、メディアに散乱するポリー・マグーの偶像が強調されていくと同時に、そのアイデンティティは希薄になっていく。
この作品から他の作品を見渡してみると、この作品のタイトルにもなっている“お前は誰だ”という辛辣な問いかけが、響きあっていることに気づく。それは劇映画に限らず、ドキュメンタリーでも一貫している。
たとえば、プロボクシングの世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリを、64年と74年というふたつの時期にわけて追ったドキュメンタリー『モハメド・アリ、ザ・グレーテスト』は、タイトル・マッチをクライマックスとするようなスポーツ・ドキュメンタリーとは無縁の作品である。
ここでもアリという存在は、64年のアメリカ、74年のザイールという異なる時代と場所のなかで、様々な力のせめぎあいのなかにある。アリの内部からわきあがる衝動と、マスコミやアメリカの黒人、アフリカ人などの眼差しの狭間で、偶像は一人歩きし、激しく揺れ動くのだ。
また、リトル・リチャードのドキュメンタリー『リトル・リチャード・ストーリー』では、“キング・オブ・ロックンロール”、スターとしてのリチャードと同時に、福音伝道に専心する聖者としての彼のふたつの顔が映し出される。しかもそんなふたつの像をさらに混沌に導くのが、リチャードのそっくりさんコンテストに出場する人々の存在だ。彼らがスターとしてのリチャードを必死に模倣しようとする一方で、リチャードは白人伝道師(伝道ビジネスマンというべきか)とともに、テレビ・カメラに向かって人種差別のない神の福音を説く。
写真も含むクラインのモンタージュは、リチャードの偶像を強調すると同時に、本人の不在の瞬間を作り上げてしまう。ときとして、リチャード本人やそっくりさんが機械仕掛のロボットのようにも、はりぼてのようにも見えてくる。こうして、クラインの“お前は誰だ”という鋭い問いかけのなかで、リチャードの存在は混沌に埋没していく。
クラインの映画の中心にすえられた人物たちは、確固とした個性、個人的な存在というものを剥奪され、あたかも精巧で伸縮自在の皮膚を持ち、内部と外部の力のバランスによって、その皮膚が偶像のかたちを成しているかのような錯覚をもたらす。そんなイメージは、消費社会によって生みだされ、当たり前のように見える偶像が、クラインの問いかけを起爆剤としてその基盤が揺さぶられ、異化されることから生み出される。
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