ウィトキンは、1939年にニューヨークのブルックリンに生まれた。父親はユダヤ系で母親はカトリックだった。彼は三つ子の兄弟のひとりとして生まれたが、そのうち無事に生き延びたのは男の兄弟ふたりで、
もうひとりの女の子は流産している。両親は兄弟がまだ幼い頃に離婚し、彼らは母親の厳格なカトリックの環境のなかで育てられ、父親は定期的に養育費を持って現れるだけの存在になった。ウィトキンの半生は、
その出発点から欠落や喪失の翳りをおびている。
ウィトキンが6歳の時、彼は強烈な出来事に遭遇する。それは、兄弟が母親に手を引かれて教会に向かう途上で起きた3台の車の衝突事故だった。彼は、横転した車から何かが転がってくるのを見た。それは彼の足元で止まった。
小さな女の子の首だった。彼はかがみ込んでその顔に触れ、話しかけようとしたが、その前に誰かに引き離されてしまったのだという。
ウィトキンは16歳のときに初めてカメラを手にし、写真に関する何冊かの本を読み、写真を撮りはじめた。彼が強い関心を示したのは、コニー・アイランドのフリークス・ショーだった。
彼はそのショーに足しげく通い、3本の足を持つ男や小人、両性具有者の写真を撮り、しかもそれだけにとどまらず、最初の性体験の相手としてその両性具有者を選んでもいる。
60年代に入り、写真技術者として職を得たウィトキンは、一方でニューヨークにある美術学校クーパー・ユニオンで彫刻を学ぶ。その後徴兵され、写真班として訓練を受け、アメリカ諸州やヨーロッパを回り、
テキサスの陸軍写真班として兵役を終える。彼の任務のひとつは、訓練中の事故で死亡したり自殺した兵士の肉体を撮影することだった。
退役後、彼はクーパー・ユニオンに戻るが、今度は、東洋の神秘主義や瞑想に熱中し、インドに渡ってヨガを学んだりもしている。その後、74年に美術の奨学金を受け、ニューメキシコ大学に大学院生として迎えられた彼は、
以後10年以上ものあいだ、家族とともにアルバカーキに住み、神秘のベールに包まれた創作活動を続けている。
ウィトキンの写真表現が、死とフリークスをめぐるこうした彼の体験に深く根ざしていることは容易に察することができる。しかし、ひとつ大きく異なるのは、彼の体験に漂う生々しさが、
よどむような時間を内包する彼の写真空間のなかでは完全に風化していることだ。彼は、ネガに擦り傷や引っかき傷をつけたり、わずかにセピアがかったソフトなトーンを出すために、印画紙に非常に薄いティッシュのような紙を重ねるといった技巧を施している。
ただグロテスクで生々しいだけのイメージであれば、その場のショックで終わってしまうが、静寂に包まれた彼の世界は、わたしたちの意識の深層に働きかけ、自我というものの境界にじわじわと揺さぶりをかけてくるのだ。
ウィトキンの世界でさらに興味深いことは、彼が、個人的な体験から内部に形成されたダークなヴィジョンをダイレクトに視覚化するのではなく、その源流を西欧の美術や文学、神話や歴史に求めていることだ。
85年末から今年(87年)の4月までアメリカの5都市を回ったウィトキンの写真展のプログラムには、彼の写真の原形を成すルーベンスやゴヤの作品が実際に併置されている。こうした多岐にわたる源流のなかでも、個々の作品に限らず彼の写真に大きな影響を及ぼしていると思われるのが、
クリムト、フェリシアン・ロップス、アルフレッド・クービンらに代表される19世紀末の象徴主義である。19世紀のペシミズムを前提としたハンス・H・ホーフシュテッターの次のような記述は、ウィトキンの表象世界にすみやかに符号する。
「このような世界観に表現を与える象徴的絵画表象とは、失われた楽園であり、地上の地獄としての世界の光景やこの世界のなかの悪の化身としての女であり、さまざまの情熱による人間の誘惑、死と過去の手に引き渡された世界の光景であり、
人間的情熱を獣の姿によって代行的に血肉化させることであり、夢の中での世界の変身であり、仮面としての個性を剥奪された人間や、仮装行列としての人生の光景であり、また根こそぎにされ追放された存在の象徴としての娼婦である」
ウィトキンは、こうした表象体系を写真メディアに取り込み、これを骨格として現代に通底するダークなヴィジョンを何層にも塗りこめ、血肉化する。彼が構築する新たな象徴的写真表象は、?ノーマル?な人間が作り上げた男と女、
自己と他者、生と死、精神と肉体、現実と幻想の境界に静かな揺さぶりをかけ、表層と隠された自己の不協和音を誘発し、現実という虚像を暴き出すのだ。 |