世界の終りとハードボイルド・ワンドーランド/村上春樹

新潮社/1985年
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(初出:「SFマガジン」2004年6月号)
スプロール・フィクションとしての可能性

 『風の歌を聴け』の主人公「僕」は、ロバート・E・ハワードを連想させる架空の作家デレク・ハートフィールドから文章について多くを学んだ。『羊をめぐる冒険』の「僕」は、「カラマーゾフの兄弟」と「静かなドン」を3回ずつ読んだことがあり、冒険の最中には「シャーロック・ホームズの事件簿」を読みつづけている。

 『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」は、こんな本の読み方をする。「フォークナーとフィリップ・K・ディックの小説は神経がある種のくたびれかたをしているときに読むと、とても上手く理解できる。僕はそういう時期がくるとかならずどちらかの小説を読むことにしている」。また、こうした村上作品を読めば、彼がレイモンド・チャンドラーやカート・ヴォネガットなどから少なからぬ影響を受けていることがわかる。

 村上春樹のなかでは、パルプ小説や文豪の大作、純文学とミステリやSFなどの間に一般的な境界はなく、独自の感覚でごく自然に結びついている。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、彼のそんな独自の感覚が、小説のスタイルやイマジネーションに最も自由なかたちで現われた作品だといえる。この小説では、「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という一見まったく異質な世界に存在する「僕」と「私」の物語が交互に綴られ、次第に共鳴していく。

 「世界の終り」の舞台は、中世を思わせる壁に囲まれた街。そこには、たくさんの一角獣が棲息し、住人たちには心がなく、そのために平穏な生活を送っている。「僕」は、影を切りとられ、<夢読み>となり、図書館に並ぶ一角獣の頭骨から古い夢を読む仕事をする。"世界の終り"である街には出口はなく、「僕」はやがて心を失い、住人の一員となる運命にある。

 「ハードボイルド・ワンダーランド」の舞台は、計算士を使って機密データを守ろうとする『組織』と記号士を使ってそれを盗もうとする『工場』というふたつの勢力がせめぎあう高度情報化社会、東京。「私」は計算士のひとりだ。計算士は意識を二重構造にする手術を受け、その意識を使ってデータを変換する。地下空間に隠れて研究を行う謎の博士のデータを処理した「私」は、気づかぬうちに深刻なトラブルに巻き込まれている。




 ふたつの世界は、図書館とそこで出会う女性、川や頭骨などを通して呼応しているが、そのなかで最も興味深いのは、「僕」と「私」の立場だ。影と切り離され、記憶まで失った「僕」は、頭骨から夢は読めても、意味を理解することはできない。図書館の女の子は、心が閉じているからだという。「私」は、トラブルの原因がデータを処理した意識の核にあることはわかるが、計算士には、それを呼びだせても、中身を知ることはできない。博士の孫娘は、「私」の意識にとても固い感情的な殻があるという。「僕」と「私」は、それぞれに欠落を抱えて手探りを余儀なくされ、そんな展開が、音や音楽を際立たせることになる。

 角笛に誘導される一角獣、無音のエレベーター、骨の音を聞きとる研究、地下空間に潜み、声で人を死に導くやみくろなど、この物語は、冒頭から音に関する記述が散りばめられている。そして、手探りのなかで感覚が鋭敏になっていく「僕」と「私」のなかで、音や音楽が記憶や喪失と深く結びつき、彼らを揺り動かし、内面と外部にある現実というふたつの世界に対する認識を変えていくのだ。

 『組織』と『工場』の対立からは醜悪な現実が次々と浮かび上がってくる。一方、ある種のユートピアに見えた街からも、その完全性を支える醜悪なシステムが見えてくる。「僕」とその影は、街の完全性があらゆる可能性を含んでいることを発見するが、その発見を通した世界の認識には大きな隔たりがある。それぞれに状況に流されていた「僕」と「私」は、手探りで自我の在り様を確認し、出口のない完全性(のなかの可能性)をあえて肯定することで、外部の世界をも肯定していく。ファンタジーやディック的な現実の揺らぎ、ハードボイルド的な真相究明の手続き、音や音楽を媒介とした表現などが融合したこの物語は、個人の内面に新鮮な光をあて、掘り下げると同時に、新たな小説の領域を切り開いているのだ。


(upload:2006/06/08)
 
 
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