かつてエキセントリックで挑発的な感性と表現で異彩を放ったペドロ・アルモドバルは、この十年ほどの間に新たな次元へと踏み出し、『オール・アバウト・マイ・マザー』(99)と『トーク・トゥ・ハー』(02)でアカデミー賞も受賞し、巨匠と呼ばれる作家になった。彼の変化は、たとえばその脚本に表れている。構成が非常に重視され、単に緻密なだけではなく、これまでとは違う独自の世界観が浮かび上がってくるようになった。その分岐点は、『私の秘密の花』(95)と『ライブ・フレッシュ』(97)の間にあるように思える。
■『私の秘密の花』から『ライブ・フレッシュ』に至る変化■
『私の秘密の花』は、その後の作品のなかで発展していくモチーフが盛り込まれているという意味で注目すべき作品だし、脚本の完成度も高いが、そこに特別な構成や独自の世界観を見出すことはできない。ヒロインは売れっ子のロマンス作家のレオで、彼女が自分の小説と現実のギャップに引き裂かれ、苦悩しながら自分を取り戻していくメロドラマになっている。
これに対して『ライブ・フレッシュ』では、登場人物たちの密接な結びつきが、個人の物語を超えた世界を切り開いていく。領事の娘でマリファナ中毒のエレナ、彼女と一夜を共にして恋の虜になってしまった若者ビクトル、刑事のダビドとサンチョ、そしてサンチョの妻クララ。そんな5人の男女の運命が、誤解や裏切り、報復などによって複雑に絡み合う。そして最後にひと組の男女の愛が生まれるが、それは必ずしも彼らふたりだけのものではない。
それぞれに一方的な愛に苦悩する5人の男女の心は次第に変化し、彼らの選択が、最後の男女の愛に集約されていく。それは、5人の男女が生み出す愛のかたちでもある。アルモドバルは、緻密な構成によって、個人の枠を越えて引き継がれていくような愛を描き出そうとしているのだ。
■『オール・アバウト・マイ・マザー』『トーク・トゥ・ハー』の世界観■
そして、『オール・アバウト・マイ・マザー』では、そんな世界観が母と子の絆をめぐって掘り下げられていく。『私の秘密の花』の冒頭、臓器提供講座の場面にはマヌエラという人物が登場するが、この映画では、彼女がドラマのヒロインになる。そのマヌエラは、これまで息子のエステバンに秘密にしてきた父親のことを打ち明けようと決心した矢先に、息子を事故で失う。その悲しみから立ち直れない彼女は、マドリッドからバルセロナへと旅立つ。父親を探し出し、息子が日記に残した父親への想いを伝えるためだ。
しかし、彼女が舞い戻った過去の世界で、ドラマは思わぬ展開を見せる。マヌエラの親友だった女装の娼婦アグラードやその友人の修道女ロサ、息子の死と深い関わりを持つ大女優ウマ・ロッホといった悩める女たちとマヌエラの間に親密な関係が生まれる。そして彼女は、息子と同じ父親、同じ名前を持つもうひとりの息子を持つことになる。この新たな母と子の絆もまた、彼らふたりだけのものではなく、他の女たちの存在や想いが個人の枠を越えてそこに集約されている。
アルモドバルが切り開こうとするこの独自の世界観は、続く『トーク・トゥ・ハー』でより鮮明になる。この映画に描き出されるのは、昏睡状態にあるふたりの女と彼女たちを愛するふたりの男の関係だ。ジャーナリストのマルコが愛する女闘牛士のリディアは競技中の事故で、看護士のベニグノが愛するバレリーナのアリシアは交通事故で昏睡状態になった。立場を共有する男たちは病院で言葉を交わすようになり、友情が芽生えていく。
この映画では、まず“リディアとマルコ”の文字が浮かび上がり、彼らの物語が描かれ、次に“アリシアとベニグノ”の文字と物語が続き、最後に未来を暗示するかのように“マルコとアリシア”の文字が浮かび上がる。それは、リディアやベニグノの死によって、愛する相手が単純に入れ替わることを意味するのではない。まさに個人という枠を越えて、関係が引き継がれ、マルコとアリシアに集約されていくのだ。
■生と死に対するアルモドバルの視点、死は生に繋がっていく■
アルモドバルは、こうした構成を駆使することによって、生と死を独自の視点から掘り下げていく。
『ライブ・フレッシュ』では、一発の銃弾が5人の男女の運命を決定する。しかし、墓地を背景にした象徴的な再会や出会いから、彼らの運命が再び絡み合い、変化していく。ビクトルは、彼の服役中に亡くなった母親の墓参りをして、父親の葬儀に参列するエレナと再会し、さらに遅れて葬儀にやって来たクララと関係を持つようになる。そのクララは後に、彼女の夫からビクトルを守るために自分を犠牲にする。そんな死が、最後に新たな生に繋がっていく。
『オール・アバウト・マイ・マザー』のマヌエラは、死んだ息子を取り戻すことはできないが、ロサの死によって彼女の息子の母親となる。『トーク・トゥ・ハー』では、アリシアが奇跡的に目覚めることによって、ベニグノの想いがマルコとアリシアに引き継がれる。個人の力だけではどうにもならない現実が、死や喪失を通して結ばれた人と人の輪の力によって乗り越えられ。そして、死は生に繋がっていくのだ。
一方、アルモドバルの半自伝的な作品『バッド・エデュケーション』(04)では、人の輪ではなく内面的な世界で、死が生へと繋がっていく。アルモドバルの分身ともいえる映画監督エンリケのもとに、彼の少年時代の親友にして初恋の相手でもあったイグナシオを名乗る若者が現れ、自作の脚本を残していく。それを読んだエンリケには、かつてイグナシオとの間に起こった悲痛な体験が甦る。
やがて彼は、本物のイグナシオがすでに死亡していることを突き止めるが、そのことは胸に秘め、若者の申し出を受け入れて彼を主役に起用し、その脚本を映画化する。エンリケは、その撮影を通して『オール・アバウト・マイ・マザー』のマヌエラのように過去へと旅をし、イグナシオの想いを受け止める。そのイグナシオは映画のなかに生き続けるのだ。
■生と死の狭間で深い共感によって結ばれていく女たち■
アルモドバルの最新作『ボルベール<帰郷>』(06)は、『私の秘密の花』にそのモチーフを見出すことができる。『私の秘密の花』のヒロインのレオには妹がいる。その妹は母親と同居しているが、母親は都会の生活に馴染めず、いさかいが絶えない。夫婦生活が完全に破綻し、深く傷ついたレオは、母親がひとりで故郷に戻ろうとしていることを知り、一緒に帰郷する。そして、母親と故郷によって癒されていく。
『ボルベール<帰郷>』では、そんな設定や展開が、巧みに焼き直されている。しかも、脚本もこれまでのように緻密な構成が前面には出てこないので、アルモドバルが『ライブ・フレッシュ』以前のメロドラマやコメディに戻ったかのようにも見える。しかしそこには、生と死に対する独自の視点がしっかりと埋め込まれている。
『ボルベール<帰郷>』は、ヒロインのライムンダが、姉や娘とともに帰郷し、母親の墓参りをする場面から始まる。ところが、ライムンダの夫と伯母の死が、彼女と母親の運命を変えていく。死んだはずの母親が突然、戻ってくるのだ。そして、ある時期から疎遠になっていた母親とライムンダが再会するとき、彼女たちが胸に秘めてきた秘密が明らかにされる。
この映画に登場する女たちはみな、男のせいで重荷を背負い、追い詰められている。ライムンダは失業中の夫の分まで働いているのに、夫は娘に手を出そうとし、取り返しのつかない悲劇が起こる。彼女の姉は、離婚し、もぐりの美容室で生計を立てている。母親は、父親が原因で身を隠し、死人や幽霊にならざるをえなかった。彼女たちはただならぬ問題を抱え、とても楽観できる状況にはない。にもかかわらず、ドラマが重くなることなく活力に満ち、希望を感じさせるのは、生と死の狭間で深い共感によって結ばれた女たちの輪が、過去を乗り越える力を生み出すからなのだ。 |